「愛する」とは、
相手が相手らしく幸せであることを
喜ぶ気持ちのことであって、


相手がこちらの思い通りになることを
強要するのは「欲望」である。











あなたのために、
あなたが困らないように、
あなたが失敗しないように、
あなたの幸せのために、


愛だと思っていた行為は
欲望だったんだ、という衝撃。


あなたのために、ではなく、
私のために、だったんだ、という衝撃。


なるほどね、
という気持ちや、


いやいや、でもさ、
という納得できない気持ち。


まだまだダメだな、
という自己否定。


数々の段階を経て
だんだん腹の底に落ちてきた。














相手が相手らしく幸せであることを喜ぶ


でもさ、
それが、もし、私の望む幸せと違ったら?
それでも相手の望みを優先するの?
相手の望みを優先したら
私は幸せじゃなくなるのに。
私だけ我慢するの?苦しむの?


相手との関係を壊したくない、
相手に嫌われたくない、
そんな気持ちがさらにややこしくする。


こんな思いを何度も繰り返し
ようやくわかった。


「愛する」ことで苦しむことはない。
苦しいのは「欲望」だから。
相手が私の思う通りにならないから苦しい。


ということを。














それがわかったのは、
相手から自分にベクトルを向けて


自分自身に向けているモノは何だろう?
愛?欲望?と、問いかけたから。


「愛」であるなら幸せ
「欲望」であるなら苦しみ


あぁ、そうか、
私は、私に、私の思う通りになることを
強要していたんだ。


こうでなければならない、と。


理想の自分になるために
本当の自分を抑えつけて。


完全なる「欲望」だった。


自分が自分らしく生きられない人間が
相手が相手らしく生きることを喜べるわけがない。


自分に「愛」を向けられない人間が
相手に「愛」を向けられるわけがない。













「愛する」とは、
「私」が「私」らしく幸せであることを
喜ぶ気持ちのことであって、


「私」が「私」の思い通りになることを
強要するのは「欲望」である。


まずは、
「私」を愛すること。
「私」が「私」らしく幸せであること。



そこがクリアできれば、
自然に相手に愛を向けられるようになる。


世界中、愛で溢れるよね。
みんなそれぞれ
「私」は「私」を生きている。
「私」は「私」でしか生きられない。