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殻付き。そにっくなーすが言葉を地獄にかけてやる

今回の鬱。
長かった。
今回は本当に長かった。
利用者さんで10数年鬱があってその後の躁がどえらいやばかった(例えばマンションをポコポコ買ったり)という人がいたが、そりゃあ10数年間鬱だったら元気取り戻した途端色々やりたくなるわな、と思ったのだった。

今回わかったことでいちばん大きかったことは、音楽も映画も本も、ド鬱の時は自分を救ってくれないということだった。

ていうか、音楽や映画や本で救われるのって回復期をかなり上がってきた時か、通常の気分の落ち込みの時ぐらいだなと思う。無理な時は何かを楽しむこと自体が無理。常にじっとしていたいし、寝ること以外できないし、本を1ページ開くのすら億劫で、友達との楽しい約束も義務になってつらいうえ、映画で感情がちっとも動かないし(座ってられない・集中できないでかなり上の空になる)、音楽は雑音になるし、何か大きな動きをしだす時って自暴自棄な時だけ。

本当になにもできないのだ。
ここまでなにもできないんだなって驚いたくらいだ。
20代前半の時の鬱と全然違う。あの時はまだ心を動かすことはできた。今回のに比べたらあんなのなんともないと思う。
憐れみを欲するあまり偽の鬱を作り出していたのではないかと思うほど。
喉元過ぎれば熱さを忘れるというので、もしかしたら忘れているだけかも知れないけれど。

なのでいま、鬱がこんなに苦しいんだな、とわかった上でできる、患者さん(利用者さん)への言葉かけやケアがあることに気付き始めている。
薬を飲みながらの生活は通常の3倍の重りを背負って生活しているようなものと中井久夫先生が書いておられたが、これは本当にそうだった。マジで縦になり続けていられずに横になるしかない苦痛や、どうしても眠くて仕事に集中できないのが一日中続く苦痛は、なってみて初めてわかった。

新人の頃はわりと簡単に「ストレングスを伸ばすのだ!」「気分転換の引き出しを増やすのだ!」と呪文のように唱えていたが、それは心身のエネルギーが極度に低下している最中の患者さんにはものすごく負担だったのではないかと思う。

身を以てじゃないとわからないのは専門家としてどうなのかと思うが、身を以てわかったことは多分ずっと忘れない。
せっかく看護師で鬱になったのだからうまく利用してひとのこころを細やかにわかる人になりたいところだ。