生長の家創始者・初代総裁、谷口雅春先生の言葉

生長の家創始者・初代総裁、谷口雅春先生の言葉

生長の家創始者・初代総裁、谷口雅春先生の言葉です。

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今、与えられているものに感謝しなさい


今、あるものに感謝しなさい。きっと、何かあなたは神から、または周囲のだれかから感謝すべきものを与えられているにちがいないのです。空気を与えられています。水を与えられています。日光を与えられています。目を与えられ、耳を与えられ、鼻を与えられ、口を与えられ、手足を与えられています。……まだまだ、数えあげれば無数でありますが、その今与えられているものに感謝することから、心の喜びがわき出て来るのです。心の喜びがわいて来ると、その喜びの心の波長が、次の喜びを引き寄せる波長となるのです。なぜなら、「類(るい)は類(とも)を招(よ)ぶ(類は友を呼ぶ)」というのが、心の法則であるからです。


新版 真理 第1巻 入門篇 p.281

第23章 幸福と想念の力

無用のものは滅びる。有用なものとなることです。会社をやめて、恩給をもらい、働かなくても生きられるように人間がなったとき、人間は急に老いぼれ始めます。人間は世の中に役へ立つように、この世に生まれさせていただいたのだから、世の中の役に立たなくなったとき、その人間は、この世から免職になる。この世を免職になるとは、病気になって死ぬことです。


世の中に腹立つ人の必要はない。癇癪(かんしゃく)の必要はない。だから、癇癪を起こすものは病気になって、寿命が縮まる。


世の中に悲しみの必要はない。悲しめば、世の中は暗くなるからだ。それだから、必要でない悲しみを起こす人は病気になって、寿命が縮まる。


世の中に悪口の必要はない。悪口を言う人が多ければ多いほど、この世は住みにくくなり、この世は不愉快になるからだ。必要でない悪口を製造する人は病気になって、寿命が縮まる。


この世に必要でない人間は滅び、この世に必要な人間ばかりが達者になって、栄えるようにできているのです。


新版 真理 p.16

第二章 内に宿る力

仕事や勉強は自分を立派にすることであり、自分の値打ちを出すことであり、自分を丈夫にすることであり、その上、他を喜ばすこと、他からありがたがられることだと知れば、われわれは仕事や勉強が自然に楽しくならずにはいないのです。楽しくなれば、われわれは生き生きしてくるのです。生き生きしてくれば、身体も元気になってくるのです。生き生きしない植木は枯れてきますが、生き生きしている植木は、ズンズン伸びて行くのでも明らかになりましょう。


人生読本 p.113

第7章 生命の生かし方

そこで、クーエは考えついたのです。朝、目が覚めて、まだ寝床から出ない前と、寝床に入って、もう眠くなってきた自分に、「これから毎日、一層すべての点で、自分はよくなる」という言葉を自分にだけ聞こえるくらいの小さな声で、20ぺん口の内でとなえて自分に聞かせて、「本当にそうだ。必ずよくなる」と心から思い込むようにするのです。これが「精神一到(せいしんいっとう)」です。心で「必ずよくなる」と思い込んで、最後まで、その思いを変えなければ、必ずよくなるのです。なんの病気もなく、これという事柄もないときなら、「これから、毎日、いっそうすべての点で自分はよくなる」と毎朝、毎晩20ぺんずつとなえるだけで、すべての点で、その人は必ずよくなりますが、1日か、2日ぐらい、それをやってみて、「こんなことでよくならぬ」と思って、捨ててしまっては、なんにもなりません。それでは、「よくならぬ」という心を服(の)んだことになりますから、その心のとおりに、すべて「よくならぬ」ということになってしまいます。


特に、病気ででもあるときには、「人間神の子、病気はない。病気のように見えていても、これはウソだから、すぐ治る」と朝晩20ぺんずつ口の内でとなえるようにすると、その病気がすみやかに治るのです。仕事のときでも、試験のときでも、まず最初に心の中で「神様と一緒させていただきますから、必ずよくできる」と5,6ぺんとなえてから、本当に神様と一緒にいるつもりでいれば、必ずよくできるのです。「できる」という言葉を常にとなえているようにすれば、常に「できる」という心になり、その心は、必ず形にあらわれて、本当にできるようになるのです。


人間はなりたいものになれるのではなく、なれると思うものになれるのです。


人間は、しようと思うものが必ずしもできるのではなく、できると思うものが、必ずできるのです。運がよくなり、偉くなり、達者になり、立身出世できるようになるには、精神の生かし方を知らねばなりません。


人生読本 p.269

第17章 精神力の生かし方

だれでも、自分は貧しい貧しいとこぼしながら金持ちになった人はありません。そんな人も支払いをケチにして少々くらいの金を貯めることはあるかもしれませんが、相当立派な富豪になることなどはできません。だれでも、いつも、「自分は身体が弱い」とこぼしながら立派な健康をもっている人はありません。人はだれでも、自分がコトバで言うとおりの人間になるのです。よく覚えておきなさい。何でも、悪いほう、暗いほう、不景気なほうを見て、それをコトバで言ったり、心にとめてはいけません。常に明るいほうのみを、よいほうのみを見て、それをコトバで言うことにし、心に思うことにしておれば、世の中のことはそのとおりに良いほうばかり出てくるのです。


新版 生活読本 p.165 

第13章 こうして富をつくりましょう

まず、与えよ


経済界の景気循環も自然の修復作用であって、行き過ぎたものが訂正されるのである。株価の変動でも上がり過ぎるものは下がるのであり、下がり過ぎるものは上がるのであり、上下を行いつつ、安定した価額に到達するのである。他の人の損を利用して、一種の駆け引きの上手さで儲けようなどと思ってはならない。株をもつならば、その会社が本当に人類に悦ばれる製品を発明したり、生産したりして、人類が皆喜んで、その製品に集って来つつある光景を心に描いて、その実現を祈るがよい。やがて、その会社が隆昌の上にも繁栄をかさねて、その会社の株価は上がるであろう。


このようにして、株によって、その人は儲けても、人から奪ったことにはならないのである。"奪う者は奪われ""奪ったものは奪い返される"のである。また、株の売買で儲けたごとく見えている人があっても、その人は必ず前世、または、父祖の時代に人々に恩恵を与えていた善業の循環であって、因果は昧(くらま)すことはできないのである。まず、与えておいた者が、与え返されるのである。


新版 希望を叶える365章

p.181

ただ、人類のために与えるだけ


物質的な富も貧乏も、それが人間の心を縛ることにおいてよく似たものである。富んでいるものは、その物質を増加したい、減らすまいとして、必要以上に心を労するのである。貧しきものは、生活をいかにして支えようかとして心を労するのである。


考え方は異なるけれども、どちらも物質について、心を労するのであるから、似たり寄ったりのものである。神からの富の供給というものを物質的標準によって自己限定して、物質の増減によって富の大小をはかろうとするから、そんなことになるのである。本当に神の無限供給によって富んでいるものは、ただ、人類のために与えるだけ、尽くすだけをしていれば、自然にその生活に必要なものが過不及なく流れ込んできて、心を労する必要がないのである。


新版 希望を叶える365章

p.169

富の流れ入る真空をつくる


キャサーリン・スローア女史は、繁栄に対する「真空の法則」というのを説いている。富を得ようと思ったならば、「真空」をつくらなければならないというのである。「自然は真空を嫌う」ということわざがある。空手(くうしゅ)になったとき、よく、宇宙普遍の富が流れ入ることになるのである。もし、私たちが与え切る生活になるならば、真空のところを、空気が自然にうずめるように、宇宙に満つる富が、自然にうずめてくれることになるのである。


「貧乏というものは、神の無限供給がいかにして得られるかという真理を知らないために引き起こされた地獄である」といった人もある。まず、富をつくろうと思うならば、「与える」ことによって「富」の流れ入るための真空状態をつくらなければならないのである。釈迦が「飢饉(ききん)のときほど托鉢(たくはつ)せよ」といわれたのは、飢饉によって貧しくなるような状態は、「与えること」によって、福田の世界に「真空状態」をつくっておかなかった結果であるから、「富」を得る準備行動として、まず、托鉢僧に施物(せもつ)を与えることによって、真空状態をつくっておかしめるためであったのである。


新版 希望を叶える365章

p.168

仕事の意義と尊さ


賃金のために働く者は、自分を売るものである。それは売春と異ならないのである。売春者は皮膚の接触や粘膜の接触を売るだけであるが、賃金のために働くものは、全身を売るものである。甲が乙を軽蔑するのは、猿の尻笑いに過ぎないのである。かくの如き人は、仕事なるものの本当の意義と尊さとを知らないのである。


「仕事」は表面は賃金のために働くような外観を呈しているが、「仕事」の最も重要な内在的意味は、人は仕事を通して「人類」に奉仕し、仕事を通して「愛」を実現し、「仕事」を通して自己の「魂」を発達向上せしめるということである。


仕事がなければ、われわれは人類に奉仕することができず、愛を実現することができず、自己の魂を向上せしめることができないのである。仕事は自己の魂を向上進歩せしめるための教材である。仕事なき人は、この意味において、実に気の毒な人だといわなければならないのである。


※猿の尻笑い-《猿が自分の尻の赤いのがわからず、他の猿の尻を笑う意から》自分の欠点に気がつかずに、他人の欠点をばかにして笑うことのたとえ。goo辞書


新版 希望を叶える365章

p.50