スポットライトをさらに光にあてるというような行為は、まるでそれまでの虚空をうそぶくかのような行為であって、それでもまだ、ただ、祭のあとの静寂が尾を引くかのように、悲しんでいるとかいないとか。
近頃の日々というものは、わずかながらの楽しみとして友人との酒の場をもってはいるのであるけれど、いつの間にか定着し始めてしまった職場との別れすらも切り出せずに、愛の言葉の一つも吐けずに、ただ盲目のふりをしながら昏々と機をまっているのみである。
愛についての100の物語
というものが、いま金沢の21世紀美術館のほうで行われていル模様。
いきたい、いきたい、ただひたすらに行きたい。
しかしながら、実は八月の末に福井県は池田町に赴くのだが、そのついでに行けばいいじゃないかと思いきや、9月にはすでにやっていないのである。残念。無念。
資本主義という言葉があまり好きではなく、それでも買物は別に嫌いではなくどちらかというと、モノを持つことによるよくというのは人よりも強いような気がしているけふこのごろですけれども。お金なんてあって困るもんでもないし、ないと困るもんですし。けれども、ほんとうのしあわせをていにいれたいとか、肌がぞわぞわするような発想を頭からカコンと出しちゃったひとからすると、おかねというのは汚くて醜くて、灰がごとく鼻につく存在なのかもしれないと思います。
たまたまこのような文体でつづっては居るけれども、それはつまり文体模写のようなものであり、端的にいってしまうなら、影響されすぎ なだけであります。
お腹がごろごろとなりはじめたので。好きな人のことでも思い浮かべながら、散歩がてらお昼でも食べにいこうかな。