今日は、谷根千を写真さんぽ


谷根千っていうのは


谷中 根津 千駄木 地域の総称らしいです



1852色の日常


西日暮里から、歩いてぶらぶら、おもしろそうなお店にはひょろっと入り


コロッケを買い食い


カフェでごはん


神社とか


お寺とか


裏路地の猫とか


公園とか(その名も須藤公園)


いろいろとまわりました



うん。すっごい暑かった

壁に色があるのは、すべて光だからなんだ。といいつつも、そんなことは意識しない。しようとしない。したくない。目の前にあるものが、すべて、そうまるっきり全部が、それ。見ていることは偽りのない世界だし、偽らてても気付かない。.

本当に尊敬できる人たちにたくさんのことを教えてもらった。
いくつもいくつも教わることがある。自分の周りには数えきれない人がいる。見知らぬ人から学ぶことだってある。電車の中で騒ぐギャルからだって、周りを意識しないでいいたことを言う度胸が学べる。そう、周りにはたくさんの人がいる。
小学校の時からの友達、川和保育園の人たち、学校の教授、事務の人、バイト先の記者さん、コンビニの店員、ゼミの仲間、高校の時少しだけ部活が一緒だったひと、幼馴染、初恋の人、音楽でつながったひとたち、隣の住人、両親、姉弟、じいちゃん、ばあちゃん、大学の友人、いつも電車で見かけるサラリーマン、ジャズスタのひとたち、先輩、テレビの中のひと、いろんなひとにいろんなことを教えてもらう。

自分自身を一番見ることができないのって自分だと思う。それはもちろん鏡の中に映る姿だとか、映像に映る姿だだとかが何かを媒介してる虚像でしかなくて、もしかしたら魔法使いが自分の目に見える瞬間にいま、自分を鏡で見ている時のようなその姿を見せているだけかもしれない。まあそんなことはどうでもよくて、自分自身にはっと気付かせてくれる言葉をこの前もらった。その人は友人の友達以上恋人未満だった人で(複雑)、それでも自分自身が気づいていなかった自分らしさを、もしかしたらそれがお世辞だったかもしれないけど、自分自身が発見だと思ったから、それでいい。

流れ星は見えるでしょうか。

人は人。自分は自分。

今、心の中には大きな決心がいくつかあって、近くそれを実行に移したいと思っている。たぶん、いざとなったらまたビビるんだろうけど、壊れることを恐れていては何も創ってはいけないんだとおもう。そう、何も創れない。恐れは、想像性を破壊する。しょせん壊れることなんて可能性にすぎないんだ。現実は小説より奇なりというじゃないか。思ってた通りに行かないから人生は面白いんだ。

書いたことが、言ったことが、考えたことのすべてだ。

何かを伝えなければ、伝わるわけがないんだ。俺はサトラレじゃないんだから。誰かの考えていることも、自分の考えていることも、外に出さなきゃ存在しないのと同じだ。いつだって、自分の中で考えて、そこで終わらせようとしてた、けど、それじゃダメなんだ。馬鹿正直になることが、素直になることが、すべての幸せにつながるわけではないだろうけども、それでも嘘をついて、ひがんでいきるよりもずっとずっと幸せには近い気がする。

たぶん、思い悩むことも、考えることも、やめることはないだろうけど、すこしだけ、自分に素直に進もうと思う。

いくつもいくつも頭の中に感情が押し掛けてきて。そのたびにうわーってなるけど、それはそれで大切にしつつ、シャワーを浴びて、ちょっと散歩して、流れ星を見れたら見て、寝ようと思う。
スポットライトをさらに光にあてるというような行為は、まるでそれまでの虚空をうそぶくかのような行為であって、それでもまだ、ただ、祭のあとの静寂が尾を引くかのように、悲しんでいるとかいないとか。
近頃の日々というものは、わずかながらの楽しみとして友人との酒の場をもってはいるのであるけれど、いつの間にか定着し始めてしまった職場との別れすらも切り出せずに、愛の言葉の一つも吐けずに、ただ盲目のふりをしながら昏々と機をまっているのみである。

愛についての100の物語 というものが、いま金沢の21世紀美術館のほうで行われていル模様。
いきたい、いきたい、ただひたすらに行きたい。
しかしながら、実は八月の末に福井県は池田町に赴くのだが、そのついでに行けばいいじゃないかと思いきや、9月にはすでにやっていないのである。残念。無念。

資本主義という言葉があまり好きではなく、それでも買物は別に嫌いではなくどちらかというと、モノを持つことによるよくというのは人よりも強いような気がしているけふこのごろですけれども。お金なんてあって困るもんでもないし、ないと困るもんですし。けれども、ほんとうのしあわせをていにいれたいとか、肌がぞわぞわするような発想を頭からカコンと出しちゃったひとからすると、おかねというのは汚くて醜くて、灰がごとく鼻につく存在なのかもしれないと思います。

たまたまこのような文体でつづっては居るけれども、それはつまり文体模写のようなものであり、端的にいってしまうなら、影響されすぎ なだけであります。


お腹がごろごろとなりはじめたので。好きな人のことでも思い浮かべながら、散歩がてらお昼でも食べにいこうかな。