終わりました。いや、もしかしたら始まっただけなのかもしれない。けど、いまのところそんなところ。

面と向かっては、実はちゃんとはまだ話していない。2回とも受話器越し。受話器越しって表現はケータイの普及に伴う社会変化に似つかわしくない気もするけど、まあつまり電話でってことで。

ごめんなさい。と謝られることが苦手だ。
だって、本気かどうかは別として、申し訳ないという感情がそこにはあるわけで。どんな形であれ、気持ちをマイナスにはしてほしくないというか。

簡単にいってしまうならば

奇跡は起きなかった ということになります。


奇跡とか、愛だとか、あまり軽々しく使いたくないんですほんとは。なんか急にその言葉が安っぽくなってしまうから。

けど、いろいろあって、やっぱり自分の一番好きな人に、自分を一番好きになってもらうという状況はまさに稀有な出来事であって。つまりは、奇跡というわけですね。

失恋って恋を失うって書くじゃないですか。

恋心が失われなかったら、それは失恋じゃないんでしょうか。っていう自己正当化。みたいな。

好きってなに、と世間一般でいうところのこの議論をするのがホントに嫌で。愛と恋の違いはとかも嫌いで。
愛に理由なんてないんだよ、夏。

いま、あまりにもインプットの量がキャパ超えしてる気がして、だからアウトプットが大切なんだけど、必要だってわかってはいるんだけど、こんな風に書いてるというか打ってるだけじゃどうしようもない感じで、誰かと本気だして人生論とか語りたい今日この頃です。
やっぱり顔突き合わせて話すことは最大のアウトプットな気がするのです。


端的に云ってしまうと、好きな人が好きな人は自分ではありませんでした。つまりは振られました。

自分で自分をメタ的に把握して引いてしまうぐらい好きで、俺馬鹿なんじゃないかと思ったけど。けど、とてつもなく大きなものを得たような気もするし、そうでもないような気もする。
いまのとこを、死にたくなるとかでもなくて、なんで大してショック受けてないんだろう、自分。とかツッコミいれてみたり、みなかったり。

もっと自分を好きになりなよって言われたけど、別に自分嫌いじゃないし、むしろ好きだし。だけど、このどうしようもないポジティブシンキング。中学の頃の自分に教えてあげたい。

人って成長しますね。中高のときの自分とか、餓鬼だ。中学のとき「今抱いてる夢をかなえられるのなんて、ほんの一握りの人間なんだよ」って俺はのたまっていたらしいけど(友人談)結局、なんも分かっていなかった。いまもわかったつもりでいるだけだとは思うけど。

誰よりも大切にしたいと願うこと が好きってことなのかとか。見返りを求めない思いやりを注げることが好きってことなのかとかいろいろ考えたんだけど、結局、つまりは

好きっていうことは 好きという言葉以外では表わすことのできない感情なんだな、と実感。言いかえることは不可能、今の浅はかな経験しかない自分ではね。

ありがとうと言ってもらえて嬉しかったし。だけど諦めるつもりは別にないから、恋人がいることは好きじゃなくなる理由にはならないからと伝えたときの一瞬の沈黙ほど怖いものはないですね。


何が言いたいか全然形にできてはいないんだけど。

今のとこ、一番幸せになってもらいたい人が幸せだからそれでいいと思います。
それが出来るのが自分ではないことがとてつもなく悔しいけれど。
今日は久々に自室で寝ることが出来る


色んな人に

たくさん伝えたいことがある



先ずはバイトが終わってからにしよう

 後悔はしたくない。

 最近、よく心にとどめておく考えである。

 
 悔むことは、なにかのメリットになるのだろうか。
 その嘆きは幸せを生むのだろうか。

 ならば、自分は反省はせども、後悔はしたくない。そう思った。



 なにか、物事を遂行したとする。
 それが、とてつもなくあたりまえで、自分自身ですら「やりとげた」と感じないようなことだとしてもだ。

 あまりに小さいことだと、こう思うことすらもないかもしれないけれど

 その行動を

 意味がなかった と云う人がいる。


 みんながみんなではないけれど、少なからずいるのだ。


 物事を無意味にするのは、誰だ。

 自分自身でしかない

 無意味と感じた、信じ込んだ、当事者である自分でしかないのだ

 
 いま、あなたはこのブログを読みながら、何気なく廊下を歩いているとする


 そのことの 意味は なんだ?

 すぐに答えられる人がいるだろうか


 僕自身、すぐには答えることはできないだろう


 だけど、そこで 自分が 道に落ちている石だったとしたら

 自らの意志でもって(べつに洒落じゃないですよ)、行動、つまりは歩いているそのことすら

 動けないものにとっては、とてつもない自由であり 幸福なのだ



 ぼくらの普段の生活というものは、そうやって成り立っている

 自らの意志で動いたことが 何事にもつながらないわけがない


 あの時、自分に対して嫌悪を抱くような行動をとったひとがいたとしても

 そのことですら、自らを気にとめて 結果として それがプラスになっていないとしても

 周りに人がいることの 幸せを そこで見出すべきじゃないんだろうか


 
 小難しいことを考えていても。それだって、なにかにつながる。

 経過 を 目的にしては なにごとも進まないのだ。

 終着点を描きたい。 今はまだ、それが出来ていない。 

 これは、自分自身に課する問題でもある。

 ただ、こうして記すのは、自分自身が考えていたことの証。


 ひとは口には出さなくても、コミュニケーションをとることは可能かもしれない。

 けど、考え事をしているその瞬間は、頭の中には言葉がある。

 それを最も的確に伝えられる方法は、もちろん 言葉を発することだ。


 口を噤むな。声を出せ。そこで何かが壊れても、そこで生まれた瓦礫の中にだって、きっと意味はある。