湯川の流れ
会津五街道の一つ越後街道を小さく旅した。
重厚な空気感と店内に響くアナログなBGMが相まって雰囲気は誠に良い。
こんな喫茶店私の知る限り茨城県にはない。
旅の旅情に浸りながらGooglemapで周辺をググると近くに会津五街道の起点となる通称札の辻の道路元標があるのを知る。
さっそく会計を済まし道路元標を訪ねる。
ここを起点にして会津五街道が各地に伸びる。
会津五街道
◯下野街道
◯白河街道
◯二本松街道
◯米沢街道
◯越後街道
番外?銀山街道
ということで本日は越後街道を旅してみることにした。軽トラで(笑)
湯川に掛かるこの涙橋の下流にはかつて刑場があったという。
罪人がここで家族とナミダの別れをしたことから涙橋の地名がついたという。
柳の木が。。。微妙かも(^_^;)
懐かしのウィークエンダー放映してたころ、泉ピン子が絶対怪談ばなししてたと思う(^_^;)
それにしてもなんで柳の木なのだろうか。。。何かの意図を感じてしまうぞ(笑)
街道沿い賑やかなお稲荷様を発見。
何度もここを通っているはずなのに知らなかった。
ちょうど神社を管理するという地元区長さんと話すことができた。かつては地味な稲荷さんだったが区長さんの趣味でこのように派手派手しくなったという(笑)
『夜に来るともっと賑やかだよ』と区長さん。。。
軽トラのエアコンファンベルトが切れていたのでダイハツ会津坂下店でコーヒーブレイク。
今どきどこのクルマ屋に行ってもドリンクをサービスしてくれるのでありがたい。
パフェなんかサービスしてくれたら毎週見積りもらいに行くんだが。。。(笑)
会津坂下を抜けて気多宮宿で柳津と越後へと道が別れる。
本堂に木造の立派な薬師菩薩像と十二神将像が奉られている。
渡舟があった高寺と片門集落は街道を歩く多くの旅人を泊める旅籠で賑わったという。
交通の要衝だったからこのような立派な木造をきっと奉納できたのだろう。
ここも宿場として賑わい、越後の新発田藩や村上藩などの大名行列が通ったという。
天屋集落の生蕎麦がかつては旅人から大人気だったらしい。
今はなき生蕎麦とはどんな蕎麦だったのだろう。
誰か再現して食べさせていただきたいもんだ。
越後街道、束松峠。
日本の道百選。
束松一里塚には残念ながら鉄塔が建てられていた。
でも会津若松から六個目の一里塚がいまでも現存していた。
電力会社さんはよくも取り壊さなかったもんだと感心した。
会津五街道の一里塚は道の両側にそれぞれ男塚と女塚が対であるが特徴だ。
大きい方が男。小さい方が女。
一里塚を越えて西会津方面を進めると洞門があった。
明治になって峻険な束松峠の代わりに藤峠を越える新ルートができてしまい、通行量の減少に危機感を覚えた村人がトンネルを掘ったという。
残念ながらライトを持参してなかったので次回はライトを用意して是非とも通り抜けたい。
今回の越後街道の旅は束松峠でお腹がすきすぎてしまい終わりとした。
たった数時間のショートトリップだが良い時間を過ごすことができた。
大芦の稲穂もだいぶ頭が垂れてきた。
次回は西会津から越後街道を旅したいと思っている。
そして最終的に夜の万世橋界隈を徘徊するつもりだ。