わたしは中年過ぎて普通ならそろそろ定年退職かという頃に医師となりましたが、若い頃から哲学的なことを考えるのが好きでした。自分の頭の構造はずっと理系だとの自覚はありますが、文系の魅力により大きく惹かれるという性分はそのままで、今でも人間の不思議さや精神構造の神秘について考えて時間を過ごしていることに気づくことが多いです。
最近は人間独特の機能としての「言葉を話す(言葉で記述する)」ことの意義について思いを馳せて過ごすことがあります。医学部在学中一、二回生の頃は他学部で開講されている臨床心理のゼミに出るのが一番好きな時間でしたが、「人の無意識が言語のように構造化されている」として夢分析や神経症治療(フロイトによると人はみな神経症患者だとか)過程の書物のゼミ講師による講読が、難解ながらも未知の領域の探検をしている気分にさせられて夢中になった思い出があります。
人は言葉で様々のことを記述し他人に伝えられると当然のように考えていますが、自分が言葉で表現することは、アナログ情報をデジタル情報で記録し伝えるようなもので、実際には連続体である森羅万象の一部をあたかも境界線の明瞭な「これ」とか「あれ」とか区別できるものとして、「言葉を使って切り取っている」わけで、連続体である実体を近似することしか出来ない。しかも切り取り方は文化や生活背景が異なるひとりひとり微妙に異なってしまうとのこと。つまり「赤(RED、ROSSO etc)」といって切り取れるものはどの文化に所属しているかはもちろん同国人でもひとりひとり異なっている。切り取ることで実態とは別物になってしまう対象物を、人は切り取ることでしか記録したり他の人に伝えたり出来ない。
物理学では物質には波動性と粒子性が兼ね備わっていて、極限に近く細分化するとすべての粒子(波動)は確率的にしかそこにはないとか、宇宙は連続体であるとか言われ始めているようですが、人は、言語では本来切り取れない森羅万象を言わば無理やり切れ目を入れて取り出した断片の集合体として、つまり言語によってデジタル化し近似した上でアナログの実態を再構築することでしか物事を理解したり、表現したりできないということです。また嘘をついて実体の無いものを捏造した上で言葉でそれを切り取り表現することが私達の精神にどんな影響を残すかもちょっと怖いです。
今も時々医学生時代の他学部でゼミのことを思い出し、患者の状態についてカルテに記載しながらも、宇宙と連続したものとして存在しているひとりの人の状態すべてを言葉で正確に記載出来ているはずもなく、言葉で切れ目を入れた時に取り出し損ねてしまったものも感じ取れる感受性を保ちながら診療できる医師でありたいと思います。
最近は人間独特の機能としての「言葉を話す(言葉で記述する)」ことの意義について思いを馳せて過ごすことがあります。医学部在学中一、二回生の頃は他学部で開講されている臨床心理のゼミに出るのが一番好きな時間でしたが、「人の無意識が言語のように構造化されている」として夢分析や神経症治療(フロイトによると人はみな神経症患者だとか)過程の書物のゼミ講師による講読が、難解ながらも未知の領域の探検をしている気分にさせられて夢中になった思い出があります。
人は言葉で様々のことを記述し他人に伝えられると当然のように考えていますが、自分が言葉で表現することは、アナログ情報をデジタル情報で記録し伝えるようなもので、実際には連続体である森羅万象の一部をあたかも境界線の明瞭な「これ」とか「あれ」とか区別できるものとして、「言葉を使って切り取っている」わけで、連続体である実体を近似することしか出来ない。しかも切り取り方は文化や生活背景が異なるひとりひとり微妙に異なってしまうとのこと。つまり「赤(RED、ROSSO etc)」といって切り取れるものはどの文化に所属しているかはもちろん同国人でもひとりひとり異なっている。切り取ることで実態とは別物になってしまう対象物を、人は切り取ることでしか記録したり他の人に伝えたり出来ない。
物理学では物質には波動性と粒子性が兼ね備わっていて、極限に近く細分化するとすべての粒子(波動)は確率的にしかそこにはないとか、宇宙は連続体であるとか言われ始めているようですが、人は、言語では本来切り取れない森羅万象を言わば無理やり切れ目を入れて取り出した断片の集合体として、つまり言語によってデジタル化し近似した上でアナログの実態を再構築することでしか物事を理解したり、表現したりできないということです。また嘘をついて実体の無いものを捏造した上で言葉でそれを切り取り表現することが私達の精神にどんな影響を残すかもちょっと怖いです。
今も時々医学生時代の他学部でゼミのことを思い出し、患者の状態についてカルテに記載しながらも、宇宙と連続したものとして存在しているひとりの人の状態すべてを言葉で正確に記載出来ているはずもなく、言葉で切れ目を入れた時に取り出し損ねてしまったものも感じ取れる感受性を保ちながら診療できる医師でありたいと思います。