覚醒とは? | ~原点回帰~

~原点回帰~

いらない思考や思い込み、余計な執着を手放して 『原点回帰』 しませんか?

私ごときが『覚醒』を語るのは、おこがましい限りであって凄く気が引けるのですが、せっかくご質問いただきましたので、私の独断な私なりの解釈で書かせていただきますねm(__)m



まず、人生は『幸せ山の山登り』であって、『山頂にある、世界平和というボタンを押す』という万人に共通の課題があります。


それとは別に、『個人個人の課題』があり、その『個人の課題が書かれている紙が入っている箱を探す』という目的があります。


この『個人の課題が入った箱を探す事』を一般的には『自分探し』と呼んでいます。


幸せ山に登る前(産まれてくる前)に、別室(あの世)で、出発時間や下山時間、どこのコースから誰と登るか・・・等の詳細な計画を立てます。(産まれる日時、死ぬ日時、結婚相手や友人、仲間等)


これを『宿命』と言い、これは変更できません。


ちなみに、上る途中で会話をしたり寄り道をしたり写真を撮ったりするのが『運命』であって、自分で自由に選択できます。


最初は速い足取り(好調期)ですが、だんだんと足取りも遅くなり休憩(停滞期)して、また速い足取りで進みます。これをバイオリズムといいます。


そうして幸せ山の山登りを開始する訳ですが、その『個人の課題が入った箱』はなかなか見つかりません。


それでも、比較的早くに見つけた人(オリンピック選手等の、幼少期から自分の道を歩んでいる人)は、その課題を遂行しながらも山頂をめざします。


しかし、早くに自分の課題を見つけたからと言っても、まだ山の麓でしかなく、吹き下ろす風や雨が強い上、急な登り坂や毒蛇、蜘蛛の巣・・・嫌な事もいっぱいあります。


ほとんどの人は、登り出してすぐに嫌なことや苦しいことにも遭遇するため、そこが『幸せ山』であることすら忘れてしまいます。


そこが『幸せ山』であることを忘れているため、登っても登っても『自分の箱』が見つからなかったり、体力がなくて休んでいる間にどんどん追い越されたりして、自信もなくして身も心も疲れる一方です。


そんな時、『悪魔教』の経営するロープウェイが目に入ります。


この『悪魔教』の信者自身、自分では『感謝教』だと思い込んでいるのが曲者です(*^_^*)


そのロープウェイでは5合目にある『とっても見晴らしのいい展望台』に行く事ができます。


そして、身も心も疲れ果てているため少しでも楽になりたくて、高額を支払ってでもロープウェイに乗って展望台に行く人も多くいます。


見晴らしもよく(俯瞰的に観える)、今までの疲れ(悩み)も吹っ飛び、辛そうに登ってくる人の姿(悩んでいる人の心)もよくみえます。


そして、辛そうな人たちをみて『救ってあげなきゃ!』というおせっかいで傲慢な『悪魔教の親切心もどき』が発動して展望台へと呼び込みます。(過剰な表現による集客)


しかし、そこはあくまでも(悪魔でも)展望台です。


一時的に楽になったり、上から見える様になったところで肝心の『自分の箱』は見つけられません。


そればかりか『ロープウェイで展望台に連れて行く事』が『自分の課題』だと勘違いしている人も多くいます。(ヒーラーやコンサルタント等)


これでは体力がつかない(自力で登れない)ばかりか、依存心を大きくする(自力で解決できない)だけで、根本的な事(自分の箱を見つける)は何も解決していません。


ちまたの『覚醒者』とは、ほとんどがこのタイプです。


ロープウェイで展望台に行き、上から見下ろして『辛そうにしている人』から高額を巻き上げて展望台へと導くだけです。


私にとっての覚醒とは、『そこが幸せ山であることを思い出して、自分の箱をみつけること』です。


急な坂道で転んでも、スズメバチに刺されても、大雨や強風の向かい風で進み辛くても、・・全てが『幸せ山』での出来事だと気付くと、辛い経験の全てが『宝物』に変わります。


せっかく、そんな『宝物』を得ようとしている人をロープウェイに誘って展望台に置き去りにするのは覚醒者のすることじゃないですよね!