1984年6月。
僕は大田区の町工場の長男として産まれた。
祖父と父親が二人三脚で機械を動かす小さな工場。
有限会社池田機械製作所。
祖父が創業し、父が引き継ぎ、そして僕が引き継いだ法人。株式会社ナチュラルワークスの前身である。
祖父と父が現役であった頃はいつでも大きな音を立てながら機械が動いていて、工場は油と金属の混ざった匂いが漂っていた。大型の旋盤、フライス盤など、機械は8台くらいの工場。電動のチェーンブロックもあり、大きな金属の塊が加工の順番待ちをしていた。
夏は暑いのでランニングシャツ一枚で働き、冬は寒いので灯油ストーブで温まる。そんな情緒溢れる職場。
小さい頃母親に「うちってお金持ち?」と聞いたことがある。うちの生活レベルが世間と比べてどんなものか知りたかったからだ。
「お父さんはお金持ちじゃないよ。自営業だからボーナス無いし。でもおじいちゃんはお金持ちの方じゃないかな。」
当時は祖父が社長で父は従業員。
みんなでご飯食べに行けば祖父が全部払い、ゴルフ、カメラ、洋服、祖父は趣味にお金を使っているように見えた。祖母にも毛皮のコートやジュエリーを買ってあげていた。旅行にもよく行っていた。
祖父は静岡から東京にやってきて事業を起こし、工場と自宅を手にした。またその自宅は息子(父)に渡し、工場の上にまた新たな住まいを増築したのだから一生懸命働いたのだろう。
僕がまだ小学生だったある日、父親が社長になると聞いた。祖父と社長を交代するらしい。なんだか僕も少しだけ誇らしい気持ちになった。
池田機械製作所はメインの客先を4社持っていた。1社は上場企業で、長年この会社が池田機械の売上の大半を締めていた。そのためか資本関係もないのに、祖父と父はその客先を親会社と呼んでいた。
「単価が安い。」それが僕の知っている唯一の取引条件。
祖父はよく父に
「たけぼうには会社を継がせるなよ。苦労するから。」
そう言っており、僕の耳にもよく入ってきた。
バブルがはじけ、日本にあった生産拠点はどんどん海外に流れていき、町工場はどんどん潰れていった。
その"親会社"も、下請け工場の生活など気にすることなく発注量をみるみる減らしていった。
池田機械製作所がどのように生き延びていたかと言うと、祖父が開発した手作り装置のおかげとも言える。
その機械の原案みたいな手作り装置で、他社でできない加工が可能になった。しかも単価も高く請求でき、15分ほどで一万円分くらいの売上をどんどん作っていく。
1日に2~3時間の作業で5~10万円くらいの加工ができるようになった。
もちろん2~3時間の作業であったにしても、客先には納期2~3週間はかかると伝えて、難しい加工のように振る舞っていた。
実際に僕がその"振る舞い"の意味を理解したのは高校生くらいになった時であったが、小さいころは早く納品してお客さんを喜ばせてあげたほうが良いと思っていた。
こんな小さな工場でも、その手作り装置は厳重に「企業秘密」として外部の目に触れることがないようにされていた。
取引先の配達員さんが材料を納品しにきただけでも、その装置にカバーを掛けてその外観と仕組みは隠されていた。
いつもその高単価加工の注文が来ると父は嬉しそうだった。
「効率良く仕事をしなくてはいけない。安く叩かれた単価の仕事なんてしていたらだめだ。」
いつの頃からか父は"親会社"の仕事を当てにすることはやめ、営業的な振る舞いをすることもやめていた。頑固な職人になっていた。
そんな父を母親はあまりよく思っていないように見えたが、僕は小さな会社でも何か企業秘密になりうるものがあれば生きていけるのだと知った。
しかしこの池田機械製作所の"企業秘密"は、後に無償で取引先に持っていかれることになるのである。。(続く)
(君には池田が見えるか?)