母親は、娘にとって他の誰よりも特別な存在なのだそう。
以前から『アーユルヴェーダ』に関心があったわたし。
かつて見つけてきた本の中にそう書いてありました。
母親から認められること
母親の反応は娘にとって命取りであるんだなぁと
なぜゆえにどう取り組んでも改善しないのか…
一見良好に見える関係性も
時間の経過と共にわだかまりなどもなくなったかのように思われましたが
ただただ『臭いものには蓋をする』ことをしていただけ…だったのかもしれません。
結局のところ表面上を取り繕っていたに過ぎなかったんだと
わたしの中の、一向に改善に向かわないある点が
『わたしは母親を信じられないんだ』
って、氣持ちに
素直に真っ正面から受け止めましたら
ものすごく心が軽くなりました。
・母親を信じられない自分が悪い
・母親を嫌いになってはいけない
・母親を嫌いなのは自分に問題がある
もしかしたらわたしは3番目の思い込みの中で
ずっともがいてもがいて生きてきたのかもしれません。
『母親を嫌いでいい』
『母親を嫌いでもいい』
そこに正当な理由も根拠もなにもいらない。
わたしはそう思っているということだけを
わたしだけは目をそらさずに受け止めてあげられたら、それでいい。
嫌悪感
不信感
拒絶反応
10代のわたしはそういった感覚感情を
誰よりも母に対して持っていたのです。
でも、否定して嫌悪して拒絶して
その感覚感情を自分が誰よりも信じられないでいた。
まさかそんな風に、大好きな母親に対し思うなんて…
わたしがおかしいんだと。
母親が大好きだったのは、それは子なら当然のことであり、わたしの感覚感情というよりも、母親の子としての感覚感情だったに過ぎない。
結論からいうと、わたしはもう
母親の愛情や反応がないと生きていけない小さな女の子ではないのだ。
母親を求める必要性はもう、ない。
むしろ、母親をひとりの人間として尊重するだけで
親だから母だからと、自ら『子』にならなくていいんじゃないかと思う。
わたしの母はとにかく『過去を生きる』人だ。
今まではそんな母をなんとかしようと
よかれと思って関わってきた。
でも、それが母ならそれでいいし
わたしがなんとかしようなんて、思う必要もない。
母からしたら大きなお世話でしかないのだから。
母は母で私は私。
やっとそう捉えられるようになったのかもしれない。
わたしはいつも備忘録やとっさに言葉を綴りたいときにTwitterを活用しています。
今、すき間時間にコーヒーを飲みに近所のスタバへ来ました。
Twitterを開いて見ていると
10月25日に起こった気づきと 関わりのある気づきが この満月であるかもしれません。
— rainbowbird.T.V (@rainbowbirdac) 2022年11月8日
ほぇ![]()
…遡って自分のツイート、10月25日何かつぶやいてたかなぁ?って見てみると。。
![]()
この記事、お昼過ぎにちょっとした出来事を機に書き始めて一時保存しました。
書きながら、母親に関する氣持ちつぶやいたのって…いつだったかなぁ~って思いながら書いてもいました。
いやはやまさかの。
びっくりすると反応が薄くなる傾向があるというか
絵文字とか氣持ちの表現に有効活用するところがあるわたしも、ものすごく抑揚のない表現になります&日本語おかしくなったりも。
最近とくに宇宙のリズムに同調しているなぁって感じていて、それが自然であり当然のことであると思うので、そう感じられることは非常に自信にも繋がるしハッピー🍀😌🍀
だけどいやはやびっくりしたぁ‼️
母は母。私は私。
母の人生と私の人生は、別々でありそれぞれの学びがあるのです。
母はそれがベストであり幸せであるのです。
わたしが出きることは
自分の氣持ちに蓋をすることなく素直になり
自分の氣持ちを尊重すること。
そして、母はそれでいいと安心すること。
そして、尊重すること。
母は幸せなのだからいいんだよ。
私は私の人生を生きよう。
私は幸せになっていいんだよ。
