以前に投稿した
こちらの記事に対応する感じで、今、道長の娘の彰子の記事を書いているのですが、結構長くなりそうなので、とりあえず先に道長の娘たちの簡単な紹介記事を書いてみたいと思います。
以下、「光る君へ」のネタバレを多く含みますのでご注意下さい
道長には6人の娘がいます。
そのうち4人が倫子、2人が明子の産んだ娘です。
長女・彰子(しょうし)
988年─1074年(享年87)
道長の長女で第一子。生母は鷹司殿・倫子。
一条天皇中宮。後一条・後朱雀天皇の生母。
一条天皇の中宮として立后し、すでに中宮位にあった定子が皇后となったことから史上初の一帝二后の例となりました。
定子の死後、遺児の敦康親王の養母となります。
一条天皇との間に、敦成、敦良の二皇子をもうけ、道長の栄華の礎を築きました。
聡明で心優しい女性で、父道長が、年長の敦康をさしおいて自分の産んだ敦成親王を東宮にしようとした時は、反対したと言われています。
一族のゴッドマザー的な存在として、曾孫にあたる白河天皇の御代に87歳の長寿で亡くなるまで大きな影響力を持ち続けました。
次女・妍子(けんし)
994年─1027年(享年34歳)
道長の次女。生母は鷹司殿・倫子。
三条天皇中宮。禎子内親王生母。
東宮時代の居貞親王に入内。
三条天皇の御代になると、すでに四人もの皇子をもうけていた宣耀殿の女御・娍子をさしおいて中宮に冊立されます。
三条天皇は娍子を皇后として冊立することで道長に対抗しようとしますが、娍子の立后の当日に道長が敢えて妍子の参内をぶつけた為、娍子の立后の儀はたいへん寂しいものになりました。
そんななか藤原実資は病をおして娍子のもとへ参上し、立后の儀を取り仕切りました。
しかし、妍子が三条天皇との間に産んだのは皇女でした。
出産当日、生まれたのが女児であることを知った道長は祝いに詰めかけた客の前でも不機嫌を隠さなかったといわれています。
妍子の産んだ禎子(ていし)内親王は、彰子の産んだ後朱雀天皇に入内し、のちに後三条天皇となる尊仁親王を産みました。
三女・寛子(かんし)
999年─1025年(享年27歳)
道長の三女。生母は高松殿・明子。
小一条院妃。
寛子は、道長と明子との間の最初の女の子として生まれました。
三条天皇が崩御し、彰子の産んだ敦成親王が後一条天皇として即位すると、東宮には三条天皇の第一皇子であった敦明親王がたてられます。
道長によってさまざまな圧力を受け続けた敦明親王は、東宮位を辞退し、そのかわりに准太上天皇の待遇を受け、小一条院の尊号で呼ばれるようになります。
寛子はこの小一条院に19歳で嫁ぎました。
小一条院には親王時代からの妃で、二男一女をもうけた藤原顕光の娘・延子がいました。しかし、寛子との結婚後は事実上、捨てられた形となり、延子は悲嘆のあまり亡くなってしまいます。
寛子自身も27歳の若さで病で亡くなるのですが、その臨終の場には院の亡き妻の延子とその父・顕光の怨霊が現れたと言われています。
四女・威子(いし)
1000年─1036年(享年37歳)
道長の四女。生母は鷹司殿・倫子。
後一条天皇中宮。
章子内親王、馨子内親王の生母。
長姉・彰子の産んだ後一条天皇の元服を待って20歳で入内しました。
帝との年齢差は9歳で、威子はこれを恥ずかしがったと言われています。
威子は後一条天皇の中宮となることで、道長は太皇太后(彰子)、皇太后(妍子)、中宮(威子)と三后をすべて自分の娘で占めることになりました。
有名な「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしとおもへば」という和歌は、威子の立后の祝宴で詠まれたものだと言われています。
後一条天皇の後宮には、道長の威勢に遠慮して他の女御は入内しませんでした。
后は自分一人というプレッシャーの中で威子は二度、懐妊しますが生まれたのは二人とも皇女でした。
威子の産んだ章子内親王は、妹・嬉子の産んだ後冷泉天皇の中宮に、馨子内親王は後三条天皇の中宮にそれぞれ立てられましたが、帝位につく皇子が生まれることはありませんでした。
五女・尊子(そんし)
1003-1087年(享年85歳)
道長の五女。生母は高松殿・明子。
異母兄・頼通の正室・隆姫女王の弟で、頼通夫妻の猶子となっていた源師房と結婚。
三男三女をもうけ、幸せな生涯を送りました。
道長の娘のなかで臣下と結婚したのは尊子だけであり、これに同母兄である頼宗、能信らは強い不満を抱いたと言われています。
しかし、師房と尊子の夫婦仲は良好で、息子たちは大臣にまで昇進し、道長の娘の中では最も平穏で幸福な生涯を送った女性と言えるかもしれません。
六女・嬉子(きし)
1007-1025(享年19歳)
道長の六女。生母は鷹司殿・倫子。
東宮・敦良親王(後朱雀天皇)妃。
後冷泉天皇生母。
嬉子が生まれた時、道長は42歳、倫子は44歳でした。
15歳で、姉・彰子の産んだ敦良親王の東宮妃として入内。
その4年後、無事に皇子を出産しますが、赤斑瘡に罹患し、出産の2日後に亡くなります。
道長と倫子は、嬉子の亡骸を抱きしめて号泣し、亡き人の魂を呼び戻そうと招魂の儀式を行わせました。
嬉子の産んだ親仁親王は、後冷泉天皇として即位し、嬉子には皇太后の位が贈られました。
しかし、この親仁親王が道長の娘たちの産んだ最後の皇子となり、道長の後を継いだ息子たちが帝の外祖父となることはとうとうありませんでした。
まとめ
以上、道長の6人の娘たちを簡単に紹介させていただきました
6人の娘たちのうち、摂関政治の要である天皇の皇子を産んだのは、結局、長女の彰子、六女の嬉子の二人だけでした。
次女の妍子も、三女の威子も産んだのは皇女だけです。
こうして並べてみると際立つのは倫子の産んだ娘と、明子の産んだ娘たちとの「格差」です。
倫子腹の彰子、妍子、威子、嬉子はいずれも帝、または東宮の妃となり華々しく入内しているのに対し、明子腹の寛子は、帝位を諦めた小一条院に、尊子は、皇室の血を引いているとはいえ、臣下である源師房に嫁いでいます。
そのうえ寛子は、小一条院の先妻の延子とその父・顕光の怨霊に祟られ命を落としています。
これは……あの明子さまが黙っていないのじゃないだろうか…。
ちなみに、明子の娘の寛子、尊子はそれぞれ夫との間に男の子を生んでいるんですね。
尊子にいたっては三人の息子を産んで、そのうち二人が大臣にまで昇進しています。
つまりは早逝しない丈夫で元気な男の子を二人産んだということです。
皇女しか産まなかった妍子と威子のかわりに、もし寛子と尊子が入内していたら…。
そんなことを道長は考えたりしなかったのかなぁ。
明子腹の息子たち──特に能信あたりは考えたよね、絶対。
倫子さまは、自分の多産、男の子と女の子、どちらにも恵まれた運の強さを娘たちを分けてあげたいと切に願われただろうなぁ。
こうして見ていくと、道長の栄華の果てに続く道は結構過酷。
ここに、まひろがどう関わっていくのでしょうか。
今後の「光る君へ」も楽しみです