すみません。
「光る君へ」の感想も今後アップしていく予定ですが、今回は大好きな中関白家のドラマには出て来ないお話を。
ドラマの今後の展開に触れるため、知りたくないわと仰る方はここで引き返していただけると幸いです
「光る君へ」には登場していませんが、定子には兄と弟だけでなく姉妹もいます。
すぐ下の妹・原子(げんし)は、道隆が亡くなる直前の正暦6年(995年)1月、東宮・居貞親王(のちの三条天皇)のもとに入内しています。
姉妹が同時期に、帝と東宮の後宮にいたわけですね。
原子は東宮の御所である昭陽舎(梨壺)からほど近い淑景舎(桐壺)を与えられ、「淑景舎の君」と呼ばれていました。
14歳で入内した原子は、「はなやかに今めかしう」(華やかに現代風で)と『栄花物語』には書かれており、姉の定子に似た華のある魅力的な女性だったようです。
「枕草子」九十八段『淑景舎、東宮に参り給ふほどのことなど…』から始まる段には、入内したばかりの原子が定子のもとを訪ねてきた時の様子が描かれています。
原子が、姉の定子の住まう登花殿を訪れ、両親である道隆夫婦、伊周、隆家ら兄弟もやってきて一家団欒のひと時となります。
中関白家の絶頂期を描いた場面のように見えますが、実はこの時すでに道隆は体調を崩していたと思われます。
道隆の病は、飲水病(糖尿病)だったといわれており、この頃にはすでにかなり自覚症状が出ていたはずです。
この華やかできらびやかな宮中での一日からわずか二か月後。
道隆はこの世を去るのです。
原子の下の妹の三の君は、冷泉天皇の第三皇子・敦道親王の妃となりました。
敦道親王は花山院の異母弟であり、現東宮の同母の弟にあたる方です。
このあたりを見る限り、道隆は大河ドラマのように定子の皇子誕生に狂執するだけではなく、定子に皇子が生まれなかった時のことを考えて、東宮のまわりにも布石を打っていたように思えます。
この三の君には狂疾の気(精神疾患の症状)がありました。
「大鏡」には、この三の君が来客中の親王のもとへ、胸元もあらわな、あられもない姿で現れたり、親王主催の詩作の会で、参加者の大学寮の学生たちに褒美と称して砂金を投げつけたりと奇矯な振る舞いがあったと書かれています。
親王は妻の振る舞いを恥ずかしく思いながらも耐えていましたが、道隆の没後はいつのまにか訪れが途絶えてしまったそうです。
この時代には、こういった現代でいえば精神疾患の一種と思われる症状を見せている皇族や貴族の話が結構ありますね。
近親結婚が多かった影響もあるのでしょうか。
貴子の産んだ末の娘の四の君は、定子が後宮にいた頃から御匣殿別当(みくしげどのべっとう)という官職を賜って宮中にいました。「枕草子」にも何度か登場しています。
この四の君は、姉妹のなかでも一番定子に似ていたそうで定子の没後、忘れ形見である敦康親王、脩子内親王、媄子内親王の養育をまかされるうち、一条天皇の目にとまり寵愛を受けるようになります。
やがて懐妊しましたが、無事に出産を迎えることかなわず身重のまま亡くなりました。彼女の死を知った一条天皇は深く嘆いたと言われています。
(この方、高畑充希さんの二役で再登板ないかしら…)
四の君の死から二か月後。
東宮妃であった淑景舎の君も姉と妹のあとを追うように亡くなります。
その死の様子は、「突然、鼻や口から血が溢れ出しそのまま亡くなる」という尋常ではないものでした。
その為、口さがない人々は、東宮の寵愛を競う宣耀殿の女御とその周囲による毒殺なのでは…と噂しました。
宣耀殿の女御・娍子はこの時すでに皇子、皇女に恵まれており、東宮との仲も睦まじく、そんなことをする必要はなかったと思われまが真相は謎です。
原子が亡くなったのは、登花殿で姉妹、家族が仲良く集ったあの輝かしい一日からわずか9年後のことでした。
道隆には、藤原国章の娘との間にもう一人娘がいましたが、この娘は後に道長の二女、妍子のもとに女房として出仕しています。
伊周の娘の一人も、のちに道長の長女・彰子の女房となっていて、世が世なら摂関家の姫であったはずの彼女たちが、従姉妹である彰子、妍子に女房として仕えていた──というのも、世の習いとはいえ、切ないですね。
今後、原子や御匣殿が「光る君へ」へ登場することはあるのでしょうか。
「光る君へ」は今のところ、三条天皇(現東宮)の周辺がほとんど描かれておらず、今後が気になります。