今回のどうする家康では、信長の娘・五徳姫が、家康の長男・信康くんのところに嫁いできていましたね。

 

小さいながらも父親の威圧感を受け継ぎ、徳川家に小さな嵐を巻き起こしている五徳姫台風

 

今はとっても可愛らしいこのお姫さまが、徳川家の運命を大きく変えていくことになります。

 

今日はその五徳姫こと、徳姫の生涯についてお話していきたいと思います桜

 

 

  九歳の花嫁

 

 徳姫は、永禄2年(1559年)に織田信長の長女として生まれました。

 生母は、信長の側室・生駒氏というのが長く定説でしたが、最近では違うという説も出ているようです。

 

 五徳、というのは鍋などを火にかける時に使う道具のことです。

 

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 信長のネーミングセンスは独特で、五徳以外にも、息子たちに「奇妙丸」「茶筅」「酌」「人」などの変わった名前をつけていますあせる

 

 

 永禄10年(1567年)5月。五徳は数え年で九歳の幼さで、徳川家康の長男・竹千代のもとへ嫁ぐことになりました。

 

 元服した竹千代は、義父の信長から「信」の字を、実父の家康から「康」の字を受け継いで「信康」と名乗ることになります。

 

岡崎城を信康に譲った家康は、自身は浜松城へと移ります。

それまで、岡崎城下の築山殿に住んでいた瀬名は、これを機に城主の生母として岡崎城へ入ります。

 

「どうする家康」では慈悲深く、聡明な瀬名が民の声を聞くためにあえて城から出て築山殿で暮らしていることになっています。

 

どうする家康 家康の最初の嫁(正室):瀬名姫(築山殿:有村架純)と長男:信康(竹千代:細田佳央太)の最期はどうなる?

 

が、瀬名が築山殿で暮らしていたのは、家康の母・於大の方の意向で、岡崎城へ入ることを許されなかったという説もあります。

 

これが事実だったとしても、姑の嫁イビリというわけではなく、単に実家の後ろ盾のなくなった瀬名──しかも、同盟相手の織田とは因縁のある今川ゆかりの姫を正室にしていることが、我が子・家康に及ぼすデメリットを考えてのことなのではないか、と思います。

 

 

家康の妻として岡崎城へ入れなかった瀬名は、信康の生母としてようやく城へ入ることを許されたのです。

 

 

  夫・信康の初陣と姫たちの誕生

 

天正元年(1573年)。夫の信康が、父の信長に従って長篠城攻めで初陣を果たします。信康・徳姫ともに十五歳の時でした。

 

その二年後の天正3年(1575年)。有名な長篠の戦いに徳川家の将として参陣した信康は、その後の戦いでもいくつもの武功を挙げ、勇猛な青年武将として成長していきます。

 

天正4年(1576年)、18歳になった徳姫は信康との間に待望の第一子を出産します。この時生まれたのが長女・登久(とく)姫でした。

 

その翌年には、次女・熊姫が生まれます。

 

戦で留守がちのなか、立て続けに二人の子に恵まれていることを見れば、この時期の信康と徳姫の夫婦仲は円満だったのではないかと思われます。

 

しかし、生まれたのは姫ばかり。

武家としては、跡継ぎとなる男児が必要です。

 

従来では、なかなか跡継ぎとなる男児に恵まれないのを見た築山殿が、信康に側室を薦めたのがきっかけで嫁姑の仲が険悪になったと言われています。

 

ここで思い出されるのが、於大の方と瀬名による大々的な側室オーディション。

 

大河ドラマ「どうする家康」第10話。松平家康の側室面接には行列が…(C)NHK― スポニチ Sponichi Annex 芸能

 

瀬名は、家のためと自分を納得させていましたが、於大の方の例にならって同じようなことをしてしまったら、徳姫サイドの反感を盛大に招く結果になりそうですガーン

 

 

  夫の命運を断ち切った12か条の訴状

 

信康がこの時期、徳姫以外に側室を迎えたことは事実で、それ以降ふたりの間には子が恵まれていません。

 

息子夫婦の仲を案じた家康が、浜松から仲裁のため岡崎へやって来た、また、信長も娘と孫に会いに岡崎を訪れたという記録もあり、この時期の二人に周囲が心配するような不協和音が生じていたことは事実なのかもしれません。

 

熊姫の誕生から2年後の天正7年(1579年)。

徳姫は父の信長に宛てた、十二ヶ条の訴状を書き送ります。

 

その内容は、夫の信康の不行状や、姑の築山殿の武田氏への内通を訴えた驚くべきものでした。

 

それを読んだ信長は、家康の家臣・酒井忠次に真偽を問いただしますが、忠次はそれを否定せずに認めたため、信長は家康に信康と築山殿の処分を要求しました。

 

 

今、織田と敵対することは出来ない家康は苦渋の末、築山殿と信康の処分を決断。

 

 まずは、築山殿が護送中に家臣たちによって殺害。

 続いて幽閉中だった信康も、切腹して果てました。

 

 徳姫が書いた一通の手紙が引き起こしたのは、あまりにも悲惨な夫の最期でした。

 

この信康事件については、近年では信長が命じたものではなかった、徳川家中の問題により生じた、など様々な説があるのですが、「どうする家康」でのチクり体質な五徳姫の描かれ方を見ていると、通説通りの信康事件が起こってしまうのでしょうか。

 

 

  その後の徳姫

 

信康の死の翌年。徳姫は岡崎を出て、実家の織田家へと帰っていきました。

 

この時、信康との間に生まれた二人の姫は徳川家へ残されました。

 

家康は、この二人の姫を、側室の西郡局(『どうする家康』のなかではお葉の方)に預け、養育させています。

 

北香那、『どうする家康』お葉役に込めた愛の在り方 「幸せであればいいんじゃないか」|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

あのお葉さんなら、パートナーのお美代さんと一緒に仲良く立派に、姫たちを育ててくれたことでしょう。

 

その後の徳姫は、近江国あたりに住まい、父・信長と長兄・信忠が本能寺の変で死んだあとは、次兄の織田信雄によって庇護されたとされています。

 

晩年は京都に隠棲し、寛永13年(1636年)、78歳で天寿をまっとうしました。

21歳で亡くなった夫の信康の死から遅れること、57年後のことでした。

 

登久姫と熊姫は、それぞれ家康のはからいで立派な家へ嫁ぎ、平穏な生涯を送りました。

 

ちなみに熊姫が嫁いだのは、本多平八郎忠勝の長男、忠政です。

 

 

家康の孫娘が、平八郎の息子のところに嫁いだわけですね。

 

  今後の「どうする家康」は?

 

この信康事件については、近年では信長が命じたものではなかった、徳川家中の問題により生じた、など様々な説があります。

 

それについては今後、別の記事で書いてみたいと思います。

 

「どうする家康」では、今のところ、五徳姫が父親の信長の威を借り、ことあるごとに父の名を出して、自分の意志を通そうとするワガママ姫として描かれています。

 

 

 

お付きの侍女たちも、それを窘めるどころか徳川よりも格上の織田の姫さまなのだから当然でしょう、といった態度に見えます。

 

このままいったら定説通りの信康夫婦の運命を辿ってしまいそうです。

 

が、嫉妬深い悪妻として描かれてきた瀬名さまを、あんなに優しく可愛らしい奥方さまとして描いている本作のこと。

 

徳姫のことも、今後、あっと驚くような新解釈が描かれるのではないかと楽しみにしていますラブラブ