今、当ブログにて執筆中の自己満足小説……というか妄想の殴り書き『夢の雫~鎌田正清の妻~』ですが。

 

 ほとんどが私の有り余る正清さまへのラブと妄想を成仏させる為に書いている落書きとはいえ……。

 

 一応、歴史上の人物や出来事を取り上げるにあたって、あんまりにも無茶苦茶、支離滅裂ではいかんだろうと、資料みたいなものを読んだりもしてるんですねー。

 

 それで分かったんですけど。

 

 私、正清さま&佳穂ちゃん(私のつけた勝手な嫁の名)の間には、娘ちゃんが一人いるだけで男の子はいないと思っていたのですね。

 

 なんでかというと、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』のなかに

 

「勝長寿院において、鎌田正清の息女が亡き父と義朝公の菩提を弔うため、供養を行いました。

 

 将軍(頼朝)、御台所(政子ちゃん)もご臨席なさいました。

 鎌田左衛門尉正清は、命を終える最期のときまで義朝さまに付き従われた忠実な一の郎党でした。

 

 頼朝さまは将軍の御位につかれてからも、正清のことを気にかけられ、その遺児を探しておられましたが、跡継ぎとなる男子はおりませんでした。

 

 それ故、頼朝さまはこの息女に、父・正清の忠節に報いる為に、所領をお与えになられました」(超意訳)

 

 みたいな記述がありまして。

 厳密にいえば、その息女の母が「長田忠致の娘」だとはひと言も書いてないので、佳穂ちゃんとの間に出来た娘さんかどうかもわからないのですが…。

 

 とにかく鎌倉幕府の公式資料である『吾妻鏡』に

 

「正清に男子はいない」

 

 と書いてあるのだからそうなのだろうと思っていました。

 

 が!! 調べ初めて分かったのですが。

 

 同じ『吾妻鏡』のなかに「新藤次俊長」という人物が出てきていまして…。

 注釈によると、

 

『生没年未詳。鎌田政家の男。藤井氏。のち鎌倉幕府の政所案主に就任した」

 と書かれているんですね~。

 

 「鎌田政家」というのは正清さまの改名後のお名前で。

 平治の乱の当時にはそちらのお名前を名乗られていたみたいです。

 

 この俊長さん。

 頼朝くんが平家討伐ののろしをあげた『石橋山の戦い』の場面で、ちゃっかり頼朝軍の人々の中におります。

 そこを信用するとなると、鎌倉幕府旗揚げ以前の伊豆の流人時代から正清ジュニアは頼朝の身辺近くお仕えしていた、ということになりますよね。

 なに、その萌えシチュエーションラブラブ

 

 し・か・も。

 

 他にも色々調べているうちに、色んな説が出てきてまして…。

 奈良県の香芝市には「鎌田」という地名があり、平家に敗れた源氏の家人の「鎌田某」という人がこの地に逃れてきたという伝説が残っているそうです。

 

 香芝市の二上山の麓、當麻の里にある「五輪塔」は、一説によると源義朝に仕えた鎌田兵衛尉正清の子、「小次郎正光」の墓であると言い伝えられているそうですよ。

 

 

 なお、「小次郎」という名前には「次郎の息子」といった意味合いがあり、もし実在したのだとすればこの「鎌田正光」なる人が正清さまのご嫡男であった可能性が高いとのこと。

 

 ちなみに源義経の栄枯盛衰を描いたヒーロー物語『義経記』にも正清さまの息子「三郎正近」という人物が登場していました。

 

 この人は、物語のなかで非常に重要なキーパーソンを果たしていまして。

 平治の乱ののち。

 平家全盛の世の中で、素性を隠すべく出家して「四条の聖」と呼ばれる僧侶となっていた正近が、鞍馬寺に預けられた義朝の忘れ形見、遮那王に

 

「あなたは先の乱で平家によって滅ぼされた左馬頭、義朝公のお子であられる」

 

 と衝撃の事実を告げ、彼が寺を飛び出し、源氏再興を誓うきっかけを与えた人物として描かれています。

 

 司馬遼太郎さんの「義経」はこの説で描かれていますね。

 そっちも萌えるぜラブラブ!

 

 「夢の雫」のなかでどの説をとるかはもう決めてはあるんですが……。

 こういう資料を読んでると、どんどん妄……空想が広がっていきますねラブラブ

 

 日本史や古典ってやっぱり楽しいです音譜