内的リソースの活性化は、その潜在力が認識されずにいる限り発生しない

 

かつて特定のタスクを割り当てられていた身体部分の活性化をやめてしまうのは珍しいことではない。

その努力が功を奏しない場合、状況は絶望的であると考えて障害に屈してしまう。

しかし、能力の実質的な欠損ですら、心身の他の部位が埋め合わせることができるということを認識しておくことは価値がある。

 

換言すれば、生命と動きがある限り、身体のある部分は必ず障害に抵抗する働きをするものとして利用できるのである。

 

絶望により、そのエネルギーを悪態に費やしているのだとすれば、浪費しているエネルギーの全てを他のところに注力すること、つまり、内的リソースの潜在力を信じてアクションを起こすことが大切なのである。

 

治療や改善に魔法は存在しないのであって、できる努力を続けることこそが希望の灯火を生み出すのである。

「受容」は学びにとって極めて重要である。

 

環境や心身に生じた手に負えない困難と戦い続ければ、エネルギーは浪費され、回復は妨げられる。

 

起きている「困難」はあくまで「変化」の途中の一時的な状態に過ぎず、変化は生じうるという認識を持つことこそが重要なポイントなのである。

 

過去のトラウマに悩まされている場合を想定してみると、それは、今まさにその障害が生じつつあるという思考が現実と結びついている可能性が高い。

だとしたら、そこに留まり続けるのではなく、その障害の先の幕引きまでの感覚を味わうことで、幸せに暮らしていくのに必要な希望を持つことに繋がる。

 

トラウマに悩む人の特徴の一つとして、その障害が生じつつあるという一時点に留まり、逃れることができないというスパイラルに陥っているケースが多い。

 

思考が柔軟性を欠き、必ず同じことが生じる枠組みから逃れることができないでいるのだ。

 

しかし、よくよく考えてみると、人生に於いて、意図的に全く同じことを生じさせることを続けることは極めて困難である。

いや、むしろ不可能と表現することの方が正確であろう。

 

であるとするならば、大切なことはいかなることでも一旦は「受容」すること。

若干の失敗や困難をも受容する達観を生み出すことが大切なのである。

 

 

かけた時間の10%は失敗に終わるだろうということを非常に残念に思っていると明確に伝えることは、かけた時間の90%は成功するだろうということを伝えていることに相違ないのである。

 

自分は失敗すると思い込んでいる人にとってこの発想を持つことは極めて重要である。

管理者側としては、不完全を受け入れる余地をいくらか残しながらも、不意に変化が起こりそうだと思えるような発言を心がけることが重要であると言える。

問題にぶつかると、ついつい「〜をやめる」「〜しない」という目標設定をしてしまうことが多い。

 

管理者側にとっても、そのことで「問題」の発生を防止できるがゆえに都合よく合意してしまう。

 

しかし、このお互いに都合の良い簡単な合意が継続的に良い結果を生む可能性は低い。

なぜなら、脳は否定形を認識できないと言われているからだ。

 

つまり「〜をやめる」の「〜」が常に肯定形として意識の中に存続することになる。

人は焦点を当てたものに自然と引き寄せられる。

皮肉にも、この課題が強く意識させられるものであればあるほど強く引き寄せられるという事態を招く。

 

「我思うゆえに我あり」

 

大切なことは、「〜をやめる」ことではなくて、「〜をやり始める」ことに焦点を絞ることなのだ。