鹿児島に旅をしてきました。

皆さんは、この機体を見たことがあるでしょうか・・・?

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                        陸軍一式戦闘機「隼」Ⅲ型甲












太平洋戦争において陸軍の主力戦闘機として開発され、
戦争末期には、「神風特別攻撃隊」として不運の運命
を背負った名機である。



私は今、鹿児島県「知覧」にいる。
「祖国日本の為に散って逝った英雄」・・・この地を訪れるまではそう思っていた。
                             



だが、真実は「特攻平和会館」で、ボランティアの方の一言で一変。

間違っていた・・・



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                               (特攻平和観音堂)



戦争末期、この知覧基地からは、1036名の隊員が本土防衛の名のもと、沖縄の空へ飛び立ち
二度と帰る事はなかった。

「特攻隊の多くは20歳前後、最年少は17歳。まだまだ母親に甘えたい時期に祖国のために・・・
彼らが出撃前夜に書いた遺書の殆どは誰にあてたものか・・・必ずお母さんと綴り無言の愛を記していたのです。」


彼らは、決して「祖国」の為に、散ったのではない。

「愛する人のため」に自らの命を捧げる事が祖国日本のためになる・・・。

そう、言い聞かせていたのである。

そして、その彼らを心から支えた「特攻の母」がいた。

当時、基地の傍らで食堂を営んでいた「鳥濱トメ」さんである。


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大空へ散っていった隊員たちの「心の母」として慕われ、

そして戦後・・・1体ずつ1人1人の供養碑を建立し、雨の日も風の日も・・・
毎日1日も欠かさず、の彼らの御霊を参拝していたという。

最も身近で、母の様に慕ってくれた隊員をわが子の死であるかのように思い、語り続けた方である。

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彼らは、最後の日・・・いったい何を思いこの岬を超えて大海原へと逝ったのだろうか。


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8月15日・・・戦争終結の日。

多くの若い命を失いながらも日本は敗戦。

戦後、日本の為に散っていった彼らの「遺志」を継ぐ人たちによって、

日本は、かつて敗戦国ではありえないスピードで復興を遂げた。

しかし、今私たちはその記憶さえ、忘れ去ろうとしている。

今も、世界のどこかで戦争は繰り返され「多くの尊い生命」が奪われている。

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私たちの現在の豊かな国「日本」は、かつて「特攻」や「南方戦線」で戦い散っていった多くの生命と
戦争を生き抜いた人々の「祖国愛」によって支えられたのではないだろうか・・・


今の私たちが失いつつある「隣人の愛」をこどもたちに受け継ぐ・・・。
それこそが、「名もなき英霊」となった御霊への最大の恩返しではないだろうか・・・。

鳥濱トメさんの碑に添えられた言葉
 「特攻隊の君、命は再び帰らず。出撃の瞬間まで求めたであろう母の姿。この晴姿をせめて母上に一目
 最後の別れと、お礼を一言。胸も張り裂けそうなその心情は、母もまた同じであったろう。今ここに立つ
 母の姿。とこしえに母と共に安らかに 母の温かいみ胸で御霊の安らかならんことを。世界平和を祈念 して」


みなさんは、どう感じられたでしょうか。
 

~愛する者の為に散っていった御霊に捧ぐ~