『押さば引け、引けば押せ』
朝露に濡れた文武館の庭。
弟子たちが木刀を構え、向かい合っていた。
「はじめ!」
永倉新八の声が響く。
真之介は勢いよく踏み込んだ。
「やぁっ!」
力いっぱい木刀を押し込む。
相手も負けじと押し返す。
ぎり、ぎり……
互いに顔を真っ赤にして力比べになる。
やがて二人とも体勢を崩し、尻もちをついた。
弟子たちが笑う。
新八も思わず笑った。
「わっはっは!」
「力比べになっとるやないか。」
真之介は悔しそうに立ち上がる。
「でも、押されたら押し返さなあかんと思って……。」
新八は首を振った。
「それでは剣やなくて、相撲や。」
弟子たちから笑いが起こる。
新八は一本の木刀を持ち、真之介の前に立った。
「よう見とけ。」
真之介が押し込む。
新八は一歩だけ引く。
真之介の身体は前へ流れた。
「おっと!」
その瞬間、新八は軽く前へ出る。
木刀の先が、ぴたりと真之介の胸の前で止まった。
「これや。」
真之介は目を丸くする。
「押さば引け。」
「引けば押せ。」
庭に静けさが広がる。
新八は木刀を下ろした。
「相手の力に逆らうな。」
「力は流れや。」
「流れに逆らえば、自分も苦しくなる。」
風が庭木を揺らした。
新八は池を指差す。
池には小さな橋が架かっている。
「見てみい。」
橋の下を水が流れている。
「岩があっても、水は喧嘩せん。」
「止まることなく、形を変えて流れる。」
真之介は池を見つめる。
水は静かに岩を避けて流れていく。
「これも"押さば引け"や。」
しばらくして稽古が終わり、祖父と孫は町へ買い物に出かけた。
細い道で、一人の老人が重そうな荷車を押していた。
坂道で止まってしまう。
真之介はすぐに駆け寄ろうとした。
その時、新八が言う。
「今や。」
二人は荷車の後ろに回り、そっと押した。
老人は振り返り、深く頭を下げた。
「助かりました。」
歩きながら真之介が尋ねる。
「これも"引けば押せ"なん?」
新八は微笑んだ。
「ああ。」
「困っとる人がおったら、一歩前へ出る。」
「それも押すことや。」
夕暮れ。
文武館へ戻る道。
新八は空を見上げた。
「真之介。」
「なんや。」
「人生は、押すことばかりでもあかん。」
「引くことばかりでもあかん。」
「大事なんは、いつ押し、いつ引くかを見極めることや。」
真之介は静かに頷いた。
夕日が二人の影を長く伸ばす。
その影は並んで、一つの道を歩いていた。
そして文武館では翌朝もまた、木刀の音とともに、新八の穏やかな声が響く。
「押さば引け、引けば押せ。」
「剣も人生も、その"間"を知ることが、ほんまの修行なんや。」