隋の国書の倭に関する記載では、倭は「俀」となっています。
また、隋の国書と日本書紀や古事記と言った日本側の記載とは、異なる点があって古くから指摘が行われています。

阿毎字多利思北孤と推古天皇、豊御食炊屋姫尊。
男王と女王との違い。
性別が違うのにどちらも裴淸すなわち、裴世清に対面している。
他にも諸々、疑問に思える点があり古くから諸説を生んでいます。
隋書俀伝には、魏書の邪馬臺国は出て来ますが、倭国は出て来ません。
宋書に出てくる皇帝に諸軍事六カ国の将軍位を与えられた倭の五王の記載もありません。

そんな中で竹斯国(筑紫国)や阿蘇山は、隋と倭がコミュニケーションが成り立っている貴重な個所です。
九州だけは、不思議とコミュニケーションが取れている。
飛鳥や難波は?
竹斯国とあるなら当時、外国の使者は、ヤマト王権の那津宮家を知っているのではないか。
推古天皇や聖徳太子(厩戸皇子)、使節だった小野妹子、蘇因高も記載がない。
その割には、阿蘇山、竹斯国は、あると言う可笑しなことになっています。

また、都斯麻国から一支国に行くのに方角が「東」になっています。
対馬から壱岐に行く方向です。
魏志倭人伝では、南とされている方向で実際に行ったことが有れば、南だと分かるでしょう。
対馬から壱岐に行くのを東だと思って進んでしまうと、ヤマトには、辿り着きません。
日出づる国と日没する国との関係で東西で考えて倭の都は、東、東と言う意識で書いているのでしょうか。
とにかく、隋の国書では、ヤマトまで本当に行き着けるのか、ちょっと戸惑ってしまいます。

百済や新羅は、皆、倭に珍しいものがあり大国なので尊敬して往来している。
と記載しています。
倭の都に行っているとか、倭王に謁見しているとは、一言も書かれてはいません。
王の祖先の陵墓が代々、大きいと言うようなことも書かれてはいません。
倭の珍しいものに阿蘇山があります。
そして、青く光るとされる如意宝珠。
対馬、壱岐から筑紫に入り阿蘇山に行くとしたら・・・。
筑後地方、八女を通ることになります。
筑紫君の本拠地です。
昔のことですから宿泊、滞在しながら行くとして筑紫君の本拠地八女を通ることになります。

日本書紀には、600年に新羅討伐が行われ602年にも来目皇子の新羅討伐が、頓挫したとは言え、計画がされていたとされます。
新羅との関係は、臨戦態勢です。
隋書に書かれていることとは、違っています。
隋書には、倭が新羅を責めたとか、倭と新羅が戦った、不仲であるとは記載されてはいません。
思い至るのが、神功皇后が受けたご神託に刀に血ぬらさずして新羅は従うとあることです。
百済や新羅皆、倭には珍しいものが在り大国なので尊敬して往来している。
とあると、出兵した推古天皇や聖徳太子ではない王権が、隋との外交に関わっているのではないか。
新羅を含めて倭には、珍しいものが在ると言って往来している勢力と新羅討伐を行っている勢力がある。
推古天皇が新羅討伐を行った同時期、当時の人々、特に筑紫にとっては、戦わずに友好的な往来を行うことは、かなり重要だったと思われます。
筑紫君磐井もそうでした。
神功皇后の胎内の皇子を王として定めるご神託が起こったのは、筑紫でのみでそのような王を決めるご神託が降りるのは、畿内では、ないことです。
筑紫では、新羅や韓半島諸国と友好的な関係を結べる王を人々は望み平和を願い、神が選びし王、ご神託こそ信じていたのではないか。
神功皇后やご神託を表した住吉神、そして、玉垂命神。
如意宝珠、夜に青く光る不思議な玉とは、月、満月にも通じるように思えます。
三柱は、高良大社の神さま方にも思えて来て・・・、
隋書にある皆、尊敬して往来しているに通じるように思えるのでした。
 

この時期、百済本記や新羅本記では、両国は不仲で幾たびかの戦いがあり高句麗の侵入にも悩まされています。
百済も新羅も高句麗討伐を隋に申し入れて許可されています。
倭の五王の時代、百済と新羅は友好的な関係でしたが、磐井の乱で磐井が討伐された後は、関係が悪化しています。
しかし、隋書では、百済も新羅も阿蘇山や如意宝珠を珍しいと皆、訪れると言うのです。

竹斯国に外国人が来て都に行きたいと言うなら那津宮家もありますし、間違うことなく行き方を教えるでしょうし、
重要な要件なら送っても行くでしょう。
しかし、「阿蘇山に行きたい」「阿蘇山を見たい」と言う外国人なら南の方向、筑後に向かい経由する。
行きたいとか、見たいとか言わずとも
「阿蘇山、阿蘇山」と言っていれば、親切な倭人が、教えてくれて手配したのではないか。
那津宮家や役人が、ヤマトや帝に報告するにしても筑紫君の館に行っている異国人は、阿蘇山見物の者ばかりで
どこかの使者とか、磐井の墓に参りたいとか、そのような者ではありません。
阿蘇山の観光です。物見遊山です。
百済も新羅も皆、そして、隋さえも「阿蘇山」と、これだけ。
飛鳥も難波も記載なし、都も不確かなのに「阿蘇山」だけは正しい。
と言うことではなかったのでしょうか。
福岡県古賀市にある船原古墳から多くの飾り馬具が出土しています。
これは、阿蘇山に行く外国の要人たちが、馬で行っていたと言うことではないかと思いました。

青く光る如意宝珠。
西海道風土記に宗像大社沖ノ島のシンボルは、青い玉だとされています。
隋の国書にある倭国の如意宝珠は、この沖ノ島の玉ではないでしょうか。
その青い玉が、夜光る玉だとしてそれは、天照大御神が身に付けていた玉を素戔嗚命が、噛み砕いたとされる誓約神話。
月は、夜を照らし満月の玉より欠けて満ちて来る。
潮の満ち引きにも通じる満ち欠け、玉をかみ砕く誓約神話を表していたのではないかと思わせたりします。
阿毎字多利思北孤は、天を兄とし日を弟とするとしています。
なら王自身は、月として表されるのではないか。
そして、「天を兄とし日を弟とする」王の位置づけと後の国書での隋の皇帝への名乗り「日出処の天子と日没する処の天子」では、これでは赤の他人。
まったく別の系譜、別人を意味しているように受け取れます。。
日は、弟じゃないのか?
日出処の天子は、天を兄とし日を弟とする3兄弟を認めてはいず、2つの国書の差出人が同じ人物であるとするのは、難しい。
差出人が、違う人間、違う処。
日本神話には、天は兄、日は弟と言う伝説は見当たりません。
日本書紀にも初めに隋に送られた国書の記載はありません。
倭王は、日が出ると理務を取りやめ弟の日にこれを委ねるとしています。
隋の皇帝高祖は、理に合わぬことと怒り訓令で改めさせたとされます。

日本書紀、古事記が成立する時代、
唐も含めて諸外国が、古くから倭に有った国として確認できるのが、都斯麻国、一支国、竹斯国。
「俀」と言われているのは、その中に幾つかの国を含んでいます。
都の邪靡堆は、魏志の邪馬臺国と同じであるとしています。
とすると、王は、諸国共立の女王であった可能性があり
これは女帝推古天皇であったとも考えられ、実際の政策に携わっていたのが、聖徳太子だった
と言う当時の飛鳥の状況に一致するのではないでしょうか。
推古天皇は、シャーマン的な女王に見られたのでしょう。
秦王国と言うクニも出て来ますが、これは秦氏、秦河勝の拠点ではないでしょうか。

邪馬臺国の時代、倭国では王たちが覇権を争い倭が乱れたので、女王を共立した。
その女王卑弥呼にも敵対勢力があり攻撃されると言う情勢で魏への冊封を求めていた。
隋の時代は、隋の方に倭に皇帝や中国王朝の威信を示し、身の程を脇まわせる、慎ませると言う目的があったようです。
国名が明確に記載されているクニグニは、隋の皇帝や使節団に従い、手厚く接待し冊封を受け入れた処でしょう。
秦氏も豪華な接待を行い、謙って皇帝や使節団を褒め称え、隋の使節団に気に入られていた。
ヤマト王権は、今までの倭王とは全く違い、冊封も将軍位も求めることがなかった。
中国皇帝の臣下に下る意思を示さなかった。
諸軍事六カ国の将軍、倭の五王と俀の王が、同じだとする記載は一言もありません。
魏書の邪馬臺国と同じだとしていますが、乱れていた倭国と同じともしていません。
なので飛鳥も難波も記載がなく、推古天皇、豊御食炊屋姫尊も名前を記載することはしなかった。
ヤマト王権は、独立国家として中国皇帝の冊封を受けなかった。
しかし、当時としては、冊封を受け入れる国、皇帝の臣下に下る国のみが、正式外交を認められていたのではないか。

小野妹子が、持参していた国書を百済人に奪われますが、
隋書の方には、そのような事件は記載がなく、使節団の要件は済んだとされています。
熊本の江田船山古墳には、百済系の高価な副葬品が出土しています。
同じく副葬されていた鉄刀が、百済の働きかけて製作されていたのなら
統べる処を失わずと被葬者の国を保証する文言がありそれは子孫にも及ぶとされ
「王恩」と言う中国皇帝の冊封を意味する言葉がある。
雄略天皇の時代、筑紫の内臣たちが船卒を率いて高句麗を討ったと日本書紀は記載しています。
「王恩」を刻んだのが、百済ならその約束を守るために国書を奪ったのではないか。
隋の方では、盗まれた事件はなかった。
冊封されている王の元に渡したと捉えているのでしょう。
「阿蘇山」に向かうのに韓半島から一支国から竹斯国に入ると、八女も通りますが、
江田船山古墳にも立ち寄ることが出来るのではないでしょうか。
結局、竹斯国を外交の窓口として筑紫太宰が成立したのではないか。
正式外交は、筑紫太宰を通すことになった。
やがて倭と隋との外交は、立ち消えとなって行きます。