後漢の光武帝のときに倭奴国の使者が、朝を行って来たので印綬を与えて冊封しています。
これが倭国の冊封の最初の記録です。
倭国の極南界にあるとされています。

邪馬臺国の卑弥呼が、魏に使者を送った際には、女王共立のクニグニに奴国も入っていますが、
奴国王についての記載はありません。
後漢の時の倭国の極南界にある倭奴国の王が元は、奴国の王だったのではないか。
魏書東夷伝倭条では、奴国は伊都国の東南にありとされ
現在、春日市に奴国王の王墓とされる墳丘墓があります。
ただ、それは弥生時代中期後期のもので副葬されているのは、前漢鏡です。
ですから前漢時代の王墓は、奴国にあったけれど、
後漢の冊封された時には、もっと南の倭国の極南界に王はいた。
その倭国が乱れたので邪馬臺国に卑弥呼女王を共立した。
そして、魏に冊封を求めた。
倭奴国は、倭国にあると、後漢書には書かれていますが、邪馬臺国が倭国に在るとは書かれてはいません。

明帝は、卑弥呼を冊封し、印綬や詔書などを与えます。
明帝は当時、病んでいましたが、翌年、崩御します。
帯方郡は、明帝が邪馬台国の卑弥呼に与えていた詔書や印綬などを少帝からとして倭国の倭王に与えます。
倭王は、帯方郡の使者と謁見し、魏の皇帝に上表文を出し感謝を表します。
邪馬台国の卑弥呼は、弟以外には合わないとされていますので倭国の倭王とは、違うのです。
正始4年に倭王から皇帝に献上があります。
これは少帝が元服した祝いの朝ではないかと思われます。
倭国が乱れているから邪馬臺国に卑弥呼女王を共立しているとされていましたが、
倭国には、平和が戻り外交も可能なようです。

邪馬臺国の卑弥呼女王が送る使者は、帯方郡止まりです。
狗奴国王が責めて来ていることを知らせますが、魏の皇帝の元までは使者は行けません。
そして、指摘したいのは、邪馬臺国からの使者は、冊封を求めてのもや狗奴国の攻撃を知らせるもので自分たちの用件ばかりで明帝の崩御へのお悔みや少帝即位のお祝いの使者は出している記録がありません。
一方、倭国は、皇帝への謝礼感謝や少帝の元服(成人)へのお祝いの使者を出しています。
倭国は、長年の冊封で皇帝への礼儀や宮中の儀礼に精通しているようです。
倭国の使者である掖邪狗らに卒善中郎将の印綬が送られるのですが、
邪馬臺国の使者である難升米は、倭の使者と書かれていて中国宮廷の称号が外されています。
皇帝の公務を担う役割が、邪馬臺国の使者から倭国の使者に変更されています。
正式な冊封が、引き続き倭国に対して行われ邪馬臺国は、冊封を受けていません。
明帝が命じていた「倭人を慰撫し皇帝に孝順せよ」と言うこと、
冊封国としての務めを実行しているのは倭国であり遠く隔たった邪馬臺国は、実行できていません。
卑弥呼女王が、亡くなると人々は大きな塚を造ったとされます。
径、百余歩。
王の大きな墓を造ると言うことも「倭人を慰撫し皇帝に孝順せよ」とは、合い入れないこと。

明帝への弔問の使者や少帝即位の祝いの使者は出さずに女王の王墓を大きく造っていた。
魏書では、卑弥呼に「女王」を付けることを止めてただ、卑弥呼とのみ記載します。

大きな王墓を皆で作れば、中国皇帝からの冊封を避けることが出来ます。

皇帝の臣下にならずに済みます。

 

魏書には、女王国より北のクニグニは戸数と道里を記載できるが、他のクニグニは遠く隔たって分からないと書かれています。
この様子では、南か東かも分かりません。
冊封を望んだのは、伊都国や奴国のような魏も良く知る交流があるクニグニで邪馬臺国周辺のクニグニは、分からないとか記されているような間柄ですから臣下に下って仕えようとは、ならないでしょう。
大切に慕っていた卑弥呼女王が、亡くなったのですから大きな墓を造って何が悪い。
そっちが知らないならこっちだって知るもんかと、ばかりに冊封なんて止め止め。
(以上、多分に憶測が入っております)
相手が、分からないとか言っているのに家来になって仕えるようなことは、出来ないのではないでしょうか。
帯方郡もそう思ったから旧知の倭国の冊封を継続した。

卑弥呼の次に男王が立ちますが、国中不服従で宋女の壹與が女王になります。
壹與の命を受けて倭国の使者が、帯方郡の役人を魏の朝廷にまで送ります。
このことから邪馬臺国の使者は、帯方郡までの道のりしか知らないのではないか。
倭国は、冊封が後漢まで遡り歴代王朝の朝廷までの道のりを知っているのではないか。
倭国には、冊封国としての礼儀儀礼の文化伝統が根付いている。
壹與女王の命にも従って帯方郡の使者を朝廷まで送って行った。
倭国の使者は、卒善中郎将として皇帝から任じれているのですから
壹與女王が命じていますが、それは大きな枠組みでは皇帝の冊封を受けている倭国の任務に含まれる。

ここで思い出すのが、
雄略天皇が百済の王子を筑紫の兵たちに送らせていることです。
壹與が倭国の使者に帯方郡の役人を送らせたように
雄略天皇は、筑紫の兵たちに百済の王子を送らせたのではないか。
こうした長年の積み重ねで冊封されていない邪馬臺国、そして、後の日本が、命じることにより冊封された倭国よりも上位に立ち倭国を併せるに至った。かもしれません。

隋書は、都の邪靡堆は、魏書の邪馬臺国と同じであるとしています。
歴代王たちの大きな陵墓が造られていることや王が女性である推古天皇であることなどが邪馬臺国と同じとした理由ではないでしょうか。
隋書で都の邪靡堆は、邪馬臺国と同じであるとしている。
なら倭人たちが王にした王であり中国皇帝が冊封した王ではないと言うことです。
長年、中国皇帝の臣として仕えた倭国、倭国王や倭の五王のように冊封された王として将軍位を求めた王たちとは、違うと言うことです。
魏書東夷伝倭条にも卑弥呼が、倭のクニグニに共立されたことが書かれています。
卑弥呼が亡くなって男王を立てるも国中不服従で卑弥呼の宋女である壹與を女王として治まったとしています。
この間、中国皇帝の関与はナシです。
後漢から冊封されていた倭国とは、違うので「日出処の天子」と名乗っても良かったのです。
もし、冊封されていたなら中国皇帝の臣下を辞めるなら王権返上と言うことになるでしょう。
しかし、邪馬臺国と同じだと言うのですから皇帝の臣下ではありません。

問題なしですし、王は天皇とされるのです。
古事記、日本書紀にも中国皇帝に冊封された形跡はまったくありません。