ご覧くださり、ありがとうございます♡
私は腰の骨折中で背中の前屈を禁じられています。
なので足の裏がずっと洗えていません
GW中に夫に洗って欲しいとお願いしたのですが、
OKの返事とは裏腹に、一度もしてもらえませんでした
夕方母が、足湯+足の裏を石鹸で洗ってくれました
とても温まり、スッキリ気持ちよかったのと同時に、更にまた母の愛を感じました
年老いた母にこんなことをしてもらうのは心苦しくもあり、子どもに戻って甘え、それを受け入れてくれる喜びのような気持ちもあり…。
夫にしてもらうより母にしてもらう方が嬉しいかもしれません。
だからやってくれなかった夫にも感謝ですね。
☆
さてさてタイトル通りなんですが
「不登校」というワードについて、どう思いますか?
昔は「登校拒否」でしたね。
そのまた昔は「学校恐怖症」だったそうです。
その定義を調べてみました。
古い順にいきます。
学校恐怖症
登校拒否、不登校
不登校(ふとうこう)は、学校に登校していない状態のことである。登校拒否(とうこうきょひ)とも称される。日本における「不登校」の語については、研究者、専門家、教育関係者らの間に全国的に統一した定義がなくきわめて多義的である。
wikipediaでは不登校と登校拒否はイコールとされているようですね。
だけど、この「不登校」というワードはイマイチ主体性を感じないんですよね。
なつベディア的に
「不」という字ははその後の単語を打ち消す意味ですよね。
直訳すると「登校でない」。
なんか変じゃね?
百歩譲って「登校出来ない」。
これなら少し納得。
でも私、我が子の不登校経験から
次男は「登校出来ない」、「行きたいけど行けない」ってよく泣いていたけど、本当は
登校したくないから行かない。
登校しない。
学校に行かない。
拒否してる。
だったと思うんですね。
自分の意志で行かないことを選択してたと思います。
嫌だからしない。
それだとやはり「不登校」より「登校拒否」なんじゃないの?
その方が次男が自分の意志で行かないと決めたと受け取れます。
どっちみち行かないのなら、
「行けない」より「行かない」の方が、
気分良くない?
でも「行けない」の方が都合がいいんでしょうね。
「行きたくないから行かない」だと責められる。
「行きたいのに行けない」だと責められない。
親が納得する。
学校も納得する。
世間も納得する。
どうして「行きたくないから行かない」は許されないんだろう?
何故主体的に「行かない」を選択することを許されない世の中なんだろう?
昔CMであった
職業選択の自由〜アハハン♪
みたいに
登校選択の自由〜アハハン♪
があってもらいいのに。
と言いつつも、私はこれからも「不登校」というワードを使い続けると思います^^;
ただ、ずっとモヤっていたことを、呟かせていただきました〜〜。
※あくまで我が家に当てはめた記事になります。
実際に学校に行きたくて行けない子どもさんはたくさんいらっしゃると思います。
「行かない」ではなく「行けない」子もいることは重々理解しています。
違和感や不快なお気持ちを持たれた方がいらっしゃったら申し訳ありません。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます♡