花束  今日の母                        

 

 

家の仕事を、母は毎日せっせしてくれている。ありがたい。

 

毎日わたしが会ったことのない遠縁のひとの名前を言って、消息をたずねてくる。いつの間にかその人たちが、わたしのきょうだいになっていたりする。いつそんなに母は子どもを産んだのだろう。「知らないし会ったこともない」と言うと「え~っ!」「そんなはずはないでしょ!」と母は大声になり、こちらが驚かされる。

 

一人でずっとしゃべっている。落語家になればよかったよ、お母さん。それぐらいお話しするのが好きなのに、デイには絶対に行こうとはしない。ほかの人たちに気をつかうと言う。気をつかうなら一人で居たほうがましだと言う。記憶力は落ちても感性は昔のまま。

 

そんな母のひとり言は、母の居場所を知っておくためには役立つ。母の姿をわざわざ確認しなくてもその声で近くにいるのがわかり、わたしは安心していられる。ひとり散歩というか、突然ひとりで出ていってしまう母を見守る(聞き守る)ためにもとても役立っている。しかし雨の日、夕方以降はわたしも母の歩きに参加する。自動車で。

 

 

 

 

                            

 

 

最初ブログを書き始めたとき、こんな理由があった。

 

①自分の考えたことを他の人に知ってほしかった ②共感してくれる人がほしかったなど。

 

そのために文体をお堅いものから、ですます調に変えてみた。なるほど文章はやわらかくなった。周りのことばかり気にしていた。

 

でもそんなのは、もうどうでもよくなってしまった。

 

わたしは母のことを書いて、認知症に翻弄される母の姿を描きたかった。それによって、①より良い薬が開発されること ②認知症患者とその家族の、社会の中での立場が良くなること ③ また誰かの役に立てればという気持ちもあった ④ やはり、誰かに共感してほしかった。わたし自身が誰かに癒されたかった。

 

しかしそんなことよりも、今を楽しもうと思う。

 

好きなことをして(母の面倒をみるもこともそのうちの一つ)、自分の人生を楽しもうと思う。