記憶と感情。


 人は何かを見た時、聞いた時、誰かと関わっている時、ほとんど無意識に過去を投影している、らしい。そして記憶というものはとても曖昧だ。良くも悪くも、都合よく改変してしまう。過去の出来事を思い出している時、これもまた無意識に今の自分の価値観というフィルターを通してしまう。「思い出している」という作業は実は過去の記憶という曖昧な断片に今の自分の価値観を当てはめて、出来事を再創造しているにすぎない。「あの時こうだった」「あの人はこんな人だ」そうなふうに物事や人を判断せずに、自分の価値観を通さずに、物事をみることが出来たらそれは理想だけれどもそれが不可能であることを同時に知っている。


 だったらどうするのが正解なのであろうか。どんな出来事にも意味がある。マイナスに見える出来事にもプラスの側面があって、良いように見える出来事にも実は同じ量だけのマイナスの側面がある。光と闇の総量はいつだって同じだ。


 コーチングでよく使うフレーズに「その出来事がもたらしてくれたあなたへのギフトは何だと思いますか」という問いがある。その出来事から学ぶべきことを受け取りきろう、そうしたらその出来事が終わるよという意図だ。


 全ての事象にプラスとマイナスの側面があるということは、「出来事からギフト(つまり学び)を受け取ること」にもプラスの側面とマイナスの側面があるよということである。


 毎日毎日、考え続けた。目の前で起こるあらゆる事象に対して、「この出来事からなにを学べば良いのであろうか。」


 ◎過剰な要求をしてくるお客さんがいる

 →「断れない」ことが問題。断ることをしてみる。/境界線の問題。適切な境界線をひく。/相手は常に自分自身の写し鏡である。自分の中にも「人に過剰な要求をしたい」心理があるのではないだろうか。/相手を憎まないこと。魂レベルでみれば罪のある存在なんていない。全ての人や物事がその役割を演じているにすぎない。/恐れを感じる。どーせこれも過去の投影。/ほんとうにそのお客さんは存在しているか。全ては夢で幻だ。 あーあー困ったなあ。行きつくところ「すべて幻」になっちゃう問題よ。


 具体的にこのお客さんとの関係を良くしたいとか、自分のことを認めたいとかという命題があるうちはまだそれで良い。


 だけど「考える」ということも、行き過ぎるとそれは意味を持たなくなってくる。


 運転中の赤信号で止まって考える。

 ◎何故、この信号は今赤なのだ。この出来事から学ぶべきことは、、⁉︎

 →信号ごときにイライラするなよ。もっと心にゆとりをもとう。/時間に遅れるのではないか。はいはい、過去の投影ですね。過去に遅刻して怒られた経験はありますか。その記憶はもう癒して光に返して良いですか。良いですよ。/おい、お前は時間なんていう概念が存在していると思っているのか。時間なんて幻想!!


 おいおい、誰か私に幻想禁止令でも出してくれ。ぜーんぶ最終的には幻想になっちゃうのだよ。良いよね、幻想って。めっちゃ好き。私は幻想を愛している。


 そんな風に考えて、ある時ふと思った。


 出来事から、学ばなくても良いよって。最近ふと、出来事から学ぼうとすることに飽きてしまった。ひとつの出来事に対して瞬間的に捉え直しが出来てしまう。一見悪いように見える出来事からでも、「この出来事から学びを得るとしたら」と考えたらすぐに答えが出てきてしまう。相手がいたとしたら何をされたとしてもされなかったとしても、その相手には一切何の罪もないとわかってしまって、もう人を責めることが出来くなってしまった。


 そうして思った。コーチング受けている時とか、重要だと感じる出来事関しては、出来事から学びを得ると良い。だけれどもそれ以外の場面では、もうそんなに考えすぎなくて良いよ。


 過剰な要求をしてくるお客さんは、別にどんな仕事をしていたってゼロにはならない。数%の確率で現れるものだから、そこには何の意味もない。赤信号もただの赤信号である。意味などいくらでも付加できるからこそ、そこに意味はないと考える。


 そうしないと、学べば学ぶほど、それと同時に虚しさが加速していくのだ。


 あぁ楽になった。出来事に意味を付与し続けて疲れるフェーズをこれで終わらせることが出来た。よーし、今日も天才である立ち上がる



 あー、今日は写真がいっぱいあるからな。


 今日の地球コーナー🌏

 (そんなコーナーあっか?うん、なかった気がする。今つくった!)


 要するに今日何をしたかってことだ。地球っていうのはただの自分の世界の話である。


 朝起きて、あーそうそう。今日ね、やばかった。7:00出勤なのに起きたら6:39。時間は幻想論はここでは却下して速攻で家を出る。奇跡の踏切0秒通過(あ、嘘です。3秒停止して左右を確認してから通過しました。) のおかげで6:59勤怠の打刻という神業を成し遂げる。


 昼は一旦家に帰って、「うわー!太陽!」って喜びの舞をする。




 

 そして地球の作物を食べる。野菜ってさ、何も味付けしない方が美味しいと思うんだ。よく友達に言われたな。「うさぎのエサかよ」美味いからな、茹でただけのにんじん🥕




 

 真っ当な人に近づくためにベランダに植物を置くも、水をあげすぎてやつれてしまった。何事も与えすぎは良くないということを学ぶ。




 取引先がコロナ祭り(Ver.2024)で出禁をくらい、仕事が飛んだ。暇が出来たら昼寝をする。昼間に眠ると訳のわからない気分になってテンションが下がることを学ぶ。


 起きたら夕日が見えて喜ぶ。

 


 夕方1件お客さんのところにいく。さっき昼寝をしたせいか声が出ない。喉がしんでいる。声帯も筋肉である。適度に使わないと衰えるということを学ぶ。


 イオンの駐車場に車を停めてパソコン作業をしていたら寒すぎてくしゃみが出る。今が冬と呼ばれる季節だったことを思い出す。イオンのフードコートで暮らそうかと思ったがフードコートまで辿りつくのが面倒になったため撤収。


 だがしかし、まだ今日が終わるには早い時間だ。家に帰ったらすぐ寝てしまう未来が見えるため、夕ご飯を食べて帰ることとする。ほら、美味そう。流行っているらしいで、ごはんと称して甘いものを食べる文化。まあどこで流行っているのか知らんけど。流行ってはないかもね。




 

 まあ今日の出来事はこのくらいだな。今の悩みは「暖冬って言ったやろ。このままノーマルタイヤで乗り切れるか。頼む、お願い、団地の5階からスタッドレスタイヤを4本も降ろすほどの意欲はないから、雪よ降らないでくれないか。マジでアレは重すぎる。頼む、暖冬❗️信じているぞ。」問題くらいやな。面倒なの半分、あとはね、さすがにダサくね?今から冬タイヤににするのは流石に遅すぎるよっていう話。えーこいつノーマルでいこうとしたけど、やっぱり寒波到来にビビって今からタイヤ冬用にすることにしたの草🌱って思われたくないもんね。いやいや、絶対思われないやろ。


 でも立春がきたら春だからね。暦が春なんだからそりゃ春だよねえ。今年の立春は2/4だろ。ということは今日が1/24だからあと11日耐えれば理論上は冬タイヤにするのをサボったけれども雪に勝てるってことだ。それ以降に降った雪に関しては「そりゃ規約違反やろ」って言えば良いもんな。


 なあなあ、調べたら立春って「今が寒さの一番厳しい時。これから春に向かうねー」ってことらしいよ。えっ😱、じゃあまだ春じゃないの⁉︎ えーそれは困るわ。自分に都合の悪い情報は採用しないことにしています。よって立春が来たら「これから春に向かうよー、今がめっちゃ冬!」説は不採用。勝手私が決めた、立春過ぎたら「もう春だよ!雪なんか降らないよ!」説を採用して、私の世界には雪降らせないでおこうと思う。


 マジででも思い込みって大事だからさ。この間の土曜の夕方には降ったらしいのだけど。その時は早々寝ていたら起きたら雪は過ぎ去っていた。後日人の話とメディアを見て「あぁ埼玉にも雪降って多少は積もったのだな」と知ったけれども、それはつまり「埼玉には降った」けれども「私の世界には雪は降っていない」のだ。


 よし、つまりこの冬をノーマルタイヤで乗り越えることは可能であるという結論。天候でさえも、意図すれば自分の都合んl良いようにコントロール出来る説。運が良い悪いではない。これは自分が自分の世界においては神であるとどれだけ認めているかというだけの問題である。神とかいうとあやしいけどね、つまり現実は自分がつくっているにすぎないってことだ。


 こうやって世界を自分の生きやすいように解釈していっているおかげで、私は今が好きになった。


 もうちょっと生産性のある悩みがあった方が良いかも知れない。


 だけど今幸せだから。2023年も良かったけれど、それを超えて2024年の今日、幸せだから。悩みも幻想なんだよね。今の目の前の出来事に過去を投影して不安になっているだけ。あーあー、またすべて幻想説に着地してしまった。


 みんな、このブログも幻想やで。ぜーんぶ幻想。そんなプロセスを楽しみに来ただけ。だから何を思っても良い。何をして、何をしないか、それによって何が起きたとしても、すべて幻想。そう考えたら、深刻さがなくなる。そうするとね、楽なのだけど、虚無が同時にやってくる。


 最近、イカれた誘導瞑想の音源を見つけてしまったんだ。極めてそれが心地良い。うん、誘導瞑想じゃないなあれは。催眠って書いてあった。ほんと数分で(最近は音声聞かなくても最早想像で飛んだ世界にいけるけど)トランス状態になってさ、殺してくれるんだよね。呼吸抑制して、痛めつけられて、そのまま刺されて殺される。あーちゃんと生き返るところの暗示まで入っているから大丈夫。


 夜にその音声を聞いて、そのまま意識を落とす。翌朝、なんだか感覚が残っている。身体はスッキリしていて、でもどこか意識はこの世界から離脱している。催眠から抜け出すために、解除してくれる部分だけを聞き直すも、いまいち抜けきらない。身体は動くから、仕事には支障もない。だけど日中も半分意識は夢の中。


 「臨死」ってさ究極の癒しなのかも知れない。この世界(此岸)に生まれる前のもとの世界(彼岸)に帰れる安心感。ヨガの最後でもわざわざ死ぬやん。あれ多分みんな帰りたいんやろ、元いた世界に。でも帰れなーい、そして現世で生きるのだ。


 わかっている。自分がこの世界にとどまり続けることが出来ない瞬間があることを。「生きることは喜びである」、その体感をすればするほどに、大きくなっていく思いがあることを。喜びや嬉しさがあればその裏で、同じ量だけ「この世界から居なくなりたい」という感覚が強くなっていく。だからあえて意図的に想像の中で死ににいく。そうすることで精神の安定が保たれる。ちょっとあっちの世界に傾倒しているけれど。


 「この世界は穏やか」そう思いすぎて、今度は刺激を求める方向にいく。それが良いことだとも悪いことだとも思わない。すべてをそういう体験だとしか捉えない。なんだか世界が無になってきた気がします。


 あー今日もいっぱい文字を打って満足です。希望と絶望が同量だけあるこの世界で、生きていたいんだよね。特に病んではない、これがデフォルト。


 さっきYouTubeで「今は情報過多で刺激が過剰!脳が休まらない!」という動画を見た。その動画よってまた脳が刺激されるという現代の無限ループ。みんなもブルーライトを浴びてないで夜は寝た方が良いよ!起きたら「あちゃーちょっと遅いよ!」滑り込みで勤怠打刻1分前!今日もギリギリで駆け抜ける生活🌟はヤバいからな。明日は仕事が10:00〜だ。えー困った、朝まともに起きる理由がないじゃないか。9:00起床は人としてよろしくないんだってばよ。朝の予定が欲しいです。朝にほんとうはもっとね、ブログ以外の発信でもしたら良いのだろうね。知っとるよ。でも寝てるのが心地良い。もう明るいけどまだ寝るごっこが幸せなんだ。ということです、おやすみなさい。


 立ち上がるおばけ




 

 今日はこれから洗濯をして、洗濯機がガラガラしている間に寝ないで、ちゃんと夜のうちに干せたら自分を褒めよう。明日は車に溜め始めたゴミを片付ける。おわりだよ、毎日車の中で出たゴミをさ、毎日まともに持ち帰っていたのにさ、(えー別に後部座席にでっかいゴミ袋おいてためておけば良くね?わざわざ毎日こまめに一旦5階まで上げる必要ある?駐車場→ゴミ置き場の方が5階の部屋→ゴミ置き場より近いよ。)説を採用してしまったら暁には人はだめになる。


 あとはね最近ね、エンジンをかけると出るのね。ナビの画面に「路面が凍結している恐れがあります。注意してください。」ってさ。あれに「うるせーよ!」って言うのやめるんだ。「教えてくれてありがとうハートのバルーン」って言わないとね。


 今家に帰ってきてストーブの上に座っている。あったかーい。ここで暖まると風呂に入らなくても良い気がしてくるから困るんだ。はやく風呂に入って、頼むから洗濯物を干して、また死ぬ音声を聞いて、寝れば良い。ほーい、スマホを仕舞え!はーい、了解しました立ち上がる おい、スマホを仕舞えとかいう文字の色を変えている暇があるのなら風呂に入れぇ!えー風呂が苦手なんですよ。根本的に濡れるのは不愉快で、、🫠 じゃあねー。