​心を向ける。

 

 令和6年能登半島地震。能登半島を震源として石川県、富山県、福井県、新潟県、津波の影響は北海道沿岸や南は九州にまで広がった。1月1日にという驚き。夕方LINEを開いて知った。その後YouTubeでテレビ映像のLIVE配信を見ていた。同時視聴者は25万を超えていた。家に帰ってテレビを見た。NHKのアナウンサーが「東日本大震災を思い出してください。命を守る行動を直ちにとってください。」と懸命に呼びかけていた。その口調は必死だったけれども冷静だった。


 夜には火災が発生しているという映像を見た。空撮映像の鮮明さ。情報の届く早さ。映像で伝えられる情報というのはインパクトが強い。これだけの情報を届けるためにどれだけの人が動いているのか。サムネに3.11の映像を使いコメント欄で「騙すようなことをするな」と叩かれていた動画もあった。


 映像の中で起きていることと、それを暖かい部屋で寝転びながら眺めている自分。この世界で起きていることの意味がわからなくなりかける。


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 「自分の身には何も起こっていないから」「地震が起きた地域には直接の知り合いは居ないから」自分には関係ないことだという態度をとらないように。かといってメンタルを持っていかれないように。


 東日本大震災の時、私はその出来事に無関心であることを貫いた。当時は高校3年生。受験というちょうど良いイベントを盾に一切の情報を経った。学校と家の往復で疲れ果てていた状態のその時の自分にとって、東北はあまりにも遠かった。東北の震災が起きたことを私がはじめて実感したのは、つい去年のことであった。


 状況を悲観も楽観もせずに。細かい情報の真偽も突き詰めればそれは重要なことではなくて。ただ見知った事柄を事実としてのみ認識する。その事実や情報を「受け入れる」のか「拒絶する」のかも重要ではない。


 スマホはほとんどの通知を切っているしニュースも普段は基本的には見ない。それでも普段の生活ではお客さんの家のテレビや職場での会話の中から概ね必要な情報が入ってくる。今回はお正月で実家に戻っていたおかげでテレビを見る環境もあった。自分がどういう環境に身を置いておいたとしても、〈真に必要な情報は自然に知り得るものである〉と考えた時過度な情報収集には走るのをやめることが出来る。



 「私の世界で起きていない」から「何も問題はない」という態度をやめようと思った。過剰に反応することはないのと同じように、極端に情報を受け取らない/拒絶する/無関心でいるということもやめようと思った。


 誰かがこの世界をどうにかしようとすることは出来ない。地震が定期的に起こるという世界線を選んで生まれてきてしまった。或いは人口地震説がささやかれるような世界線を選んで生まれてきてしまった。


 少し前、世界の闇が気になって仕方なかった頃。「コロナウイルスとされるものは人為的」だとか「ワクチンは危険」だなどの情報を集めては自分が何かを知ったような気になっていた。


 小さい頃から自分自身に絶望していた。そして同時にこの世界に絶望していた。


 ここ数年で心理学やヒーリングを学んで、自然に人と関わることが出来るようになった。自分自身の内面が満たされた時、周りの世界も満たされている/幸せでそこには何の問題も存在しないように思えた。


 絶望というフェーズを極めた先に見つけた「希望しかない世界」。だけど結局は中庸に戻る。


 希望も絶望もなくて良い。ただ祈ることが出来るとしたら。会ったこともない人たちの生活に想いを馳せることが出来るとしたら。それが真の優しい世界なのだとしたら。


 今この瞬間、日常とは違う環境に身を置いている人たちに。何かを失った人たちに。ライフラインの復旧作業を懸命に行っている人たちに。現地の状況を伝えてくれる報道関係の人たちに。その土地に。どうか、、あぁ何も言葉が出てこない。祈ることすらも必要はないのだろうか。世界が平和であってほしい、穏やかであってほしいという願いすらも外側の世界をコントロールしようとしてしまう行為なのではないだろうか。それでも大きな出来事が起きたときに「どうか無事で」と祈らずにいられないのが真実の波動なのであろうか。




 

 最大震度7とされる地震が起こって。被害は小さくはない。


 それでも日常は流れていて。どこかで何かが起こったとしても、直接の影響を受けていない地域ではいつもと変わらないように見える暮らしと経済活動が続いている。


 自分だって地震が起こった地域に心を向けたいとは思うけれども、それでも予定していたスケジュール通りに今日は普通に新幹線で大阪へ向かっている。



 新幹線が揺れるから。なんだか目の前がぐるぐるする💫これはもう画面とおさらばして良いよという合図とみなそう。この乗り物、もう少しゆっくり走ってくれないかなと最近は乗るたびに毎度思う。150キロで良いな。200キロ超えはちょっと私の魂的には疲れちゃうな。それにしても今のスマホはすごい。今280キロだよ。かっ飛ばせー新幹線。このスピードで走っていてカメラで景色を撮ってもブレないってすごいと思う。10年くらい前、初期のスマホは時速50キロ程度の在来線に乗っている時でさえ景色の写真を撮ろうと思ったらブレて撮れなかった記憶がある。






 新幹線の揺れがおさまったから。もしくはこの環境に順応したからか。体調が戻ったので続きを書こう。

 

 毎日のようにブログに書いていた。「今日もこの世界は平和」「何も問題は起きていない」。あれは少し嘘だ。間違いではないけれど、自分のことにしか意識が向いていなかった。この世界は問題だらけで、闇も深くて、毎日どこかで私たちの想像を簡単に超えるような出来事が起こる。


 それでもその状況に絶望しきらずに、何度でも立ち上がって懸命に生きる人たちの姿があるのがきっとこの世界の希望で。誰も頑張っていない人なんていなくて。私たちの生活は平常時も有事も関係なくいつだって誰かに支えられている。


 岸田首相が会見している映像をみて「正月なのに大変そう」と言った弟に「大丈夫だよ、あの顔何人もいるから代わりばんこに出てくるだけだから休みはとれているよ。」と言ったら母親に「あんたまたしょーもないこと言っていないで」と言われるが「金正恩は何人もいるの信じるのにキッシーはひとりってことはないやろ」と返す。別にどっちでも良いのだ。事実なんていうものがそもそも存在しない幻だ。


 そんなことを考えていたら新大阪についてしまった。今夜は一晩だけデータ通信もWi-Fiもほとんど入らない素晴らしい環境で眠る。やっほー、強制情報切断タイム。年末の休みに入ってから特にひどかったスマホを手放せない症候群を一晩だけやめてくる。


 地震という大きな出来事を結局はブログのネタとして消化してしまっているようなところに違和感はある。それでもこれをブログのネタにして何かを書かずにはいられなかった。


 読んで頂き、ありがとうございました。