傷つかなくても癒されるとしたら。​


 自分を傷つけるのをやめた。(ぜんぶはやめてないけど、やめたってかいたら、現実が追いついてくるだろうから。)


 傷つかなくても、癒されるとしたら。もう傷つかなくても良い。


 痛みが好きだ。好きだった。




 4年前の夏にキャンプに行った。川で泳いだ。耳に水が入った。濡れたままでいたからだろうか、外耳炎になった。アンチ保険医療なので当然耳鼻科にはいかない。今だったら役立ち基準で市販の点耳薬くらいはつけるだろうが、当時はアンチ医薬品度合いが今よりも遥かに高かった。邪気が抜ける!スプレーとかで治すことにした。炎症が起こっているので痛みがある。そして痒い。頻繁に耳を触る癖が出来た。そして薬をつけないので治りが悪い。気になるたびに耳を触る。指を入れて引っ掻きまわしてみる。炎症が治まってからもその癖は抜けなかった。ずっと触っていると、傷がつく。それがやがて瘡蓋となると、耳の中なのでガサガサした感じがする。気になるので掘り出す。また血が出る。瘡蓋→剥がすは永遠に続く。突っつき過ぎるとそのうち謎の滲出液が染み出してくる。だけどもうやめられない。知ってる?耳掻きって98%の痛みの奥に2%の気持ち良さがある。迷走神経に触れるから。あれは素晴らしい快楽だ。最初に外耳炎になったのが右か左かも忘れたけれど、気がついた時には両耳滲出液まつり、カサブタ無限ループが完成していた。とにかく耳掻きは気持ちがいいものだ。かさぶたが治ってからも、執拗に耳の奥に細い棒を突っ込くクセは抜けなかった。厳選した耳かきとピンセットとボールペンの替芯(インクがなくなったもの、これね、耳かきに使えるって知らなかったでしょう、役に立たなさすぎる情報だけど書いておこう)を毎日持ち歩いていた。得たい快楽を得るために。楊枝や針金も、とにかく細いものを見れば耳の中につっこんだ。去年までやっていたから約3年間。今はもうやめた。傷を治さないという遊びをやめるのはとても大変であった。


 もっと遡ると色々やっている。いくらでも描写は出来るけれど、書いてエネルギーが上がるものではないこと、何でも書きゃ良いってものでもないことがわかるので自粛することにしよう。いちばんライトなやつ!と思って書いた耳かきエピソードが思いのほか会心の出来で自分で読み返してもうお腹いっぱいだ。


 こうやって記憶を思い出して書き連ねることで痛みを思い出してまた気持ちよくなれることに気がついてしまった。これだけ大変だったとか、過去を語ってもそこからあまり未来に繋がらないことをもうわかっている。


 傷をつくることが好きだった。生きるためには痛みが必要だった。火傷にしろ切り傷にしろ、物理的に傷があるととても落ち着いた。頑張っている感が出るような気がした。適度な痛みという刺激が欲しかった。


 だけど、もう良いかなって。あらゆることで心を傷つけて、それを見える形の傷に置き換えることで自分が被害者であると確認する。そのパターンをやめようと決めた。




 癒されるには傷が必要だった。癒されるという体験をしたいから、あえて傷つくというプロセスを経た。そう捉えた時、もうこれ以上傷つくことをやめようと決めた。


 相手の感情の責任を取らない。

 何事も個人的には受け取らない。

 目の前で起こることは自分が作りだしているだけのことだとわかる。

 すべては幻想だから、何も危ないことは起きていないと知る。


 パッと思いついた、このあたりのことが出来ていればよい。これだけで、もう傷つかなくても良い世界をこれからは生きられる。


 今までの経験は否定せず、だからといって過剰に語りもせず、ただ「こういうこともあった」と何の判断もせずに受けとめる。今受け入れられないことは、自分がそれを受け入れていないことに気づく。


 トラウマとよばれる類のものや、過去の色々な出来事を、痛みが強すぎて思い出すことすら出来なかった頃(そして思い出せないのに過去にめちゃくちゃ縛られて人がとても怖かった状態)から、少しずつ変わっていって今はかなり楽になった。ブロック解放の仕方や否定の外しかたを学んだ。事実と捉え方を区別する。100かゼロか、黒か白かではなく、度合いで考える。


 良い悪いの判断を手放し続ける。感情にのまれたら、ただそれに気がついてその感情を感じきる。あとはリアルでもネットでも余計なことを言わない。気づいたことでも、あえて言わないという選択をする。


 そのたりが出来ていれば、今のところ私の心は平和だ。私の心が平和ということは、つまり自分の目の前の世界が平和でもあるということ。


 ずっと願っていた「世界平和」が今叶っている。何かを成し遂げたい!なんて夢はなかった。けれどその中で小さい頃からずっと本気で願い続けていたことは目の前の世界が平和であってほしいということ🕊

世界なんか救わなくとも、自分の内面を変えるだけでそれはあっさり叶った。




 今ふと思い出した記憶。高校の時に新学期に配られた「目標を書きましょう」って紙に「世界平和」って書いたら怒られたこと。あの時は「世界じゃなくてお前の目標だよ。」と言われた。世界は私の内面の反映でしかないから、つまり心の安寧が欲しかっただけだよと言いたいけれど、きっとあの時求められていた目標は「志望校合格」とか「部活に燃える!」とかそういうものだったのだろう。あれはきっと「世界が!平和!」って書いたから怒られた訳ではない。目の前の相手(先生)の求めていることが書けなかったから怒られたんだろうな。



 今日の昼ごはん。住める系ファミレス(住むな!)バーミヤン。




 やばーい、ゆっくりしてたら午後遅刻するよ。時間なんて幻想だから大丈夫だよ。ううん、時間守るのが美徳!な世界線選んできたんだから遅れちゃだめだよ🙅‍♀️


 ばいばーい。