(クッションは数年前に亡くなったチャー、手前はその兄妹のクロ)


二ヶ月ほど前、普段連絡をあまり取らない母親から急にLINEが来たので何の気なしに開いてみたら「おとうさん癌だった」という文面。


文章の行間を読むにどうやらあまり容態は良くない。ということだけは理解したものの、しばらく携帯の画面を見て固まってしまい、放心というか、動揺というか。

数分の間、文字通りその場に立ち尽くしてしばらく、なんて返信をすればいいのかも分からないからとりあえず母親に電話をした。


母親はいつも割と淡々としている人で、繋いだ先の声は普段通り感情的にもならずいつもと同じようなトーンで事実を刻々と語っていた。少なからず取り乱していた俺は、色々話を聞いたものの正直よく覚えていない。でも、もしかしたら母親もそうだったのかもしれない。現状ではあまり詳しいことが分からず、とにかく次の診察を待つばかりというような感じだった。電話を切り、ふと我にかえると、そこは少し蒸し暑くて薄暗いどこにでもある路地裏のなんの変哲もない東京の初夏の夜だった。目の前からコンビニの袋にアイスを入れた人が歩いてきていた。


それからおおよそ二ヶ月が過ぎ、八月初旬。

コロナ禍のホテル療養で患った軽度のパニック障害の名残で新幹線に乗ることに少し不安を覚えていた俺は、木本さん(抱きしめるズのドラム)に相談をしたら車を貸してくれるとのことで弾丸で帰省をした。木本さん、本当にありがとうね。


帰省の道中、遮るものもない高速道路の中は車内とは言え日差しがキツく、汗ばんだり、冷房を強くしたり弱くしたり。


数時間のドライブを経て、音楽も聴き飽き、日も暮れてしばらくした頃に実家に到着。

玄関を開けると母親が出迎える。荷物を置きリビングのドアをガチャリと開けると、そこには数年前に亡くなった猫をプリントアウトされたクッションをほぼ等身大のサイズで置いてある。どうやら姉が作ったらしく「これを置いておくとチャーちゃんが待っててくれてる気がする」らしい。

そのクッションの下で亡くなった猫の兄妹である黒猫が寄り添ってスヤスヤと寝ていた。


プリントアウトされた物とは言え、なんとなくこいつにも分かるのかもな、お前ももう十五歳になるのか。流石に一目で年老いた猫であることが分かる風体だった。


この黒猫、二歳の頃に大きめの交通事故に遭った。

その際に生死の境を彷徨ってしばらく動物病院から帰ってこなかったことがあった。

退院が決まり迎えに行った帰路の車内、身体中のあちこちを縫われて、傷を舐めないようにとエリザベスカラーまでつけられた満身創痍の黒猫は、少し車が揺れる度にきっとものすごい激痛が走るのだろう、聴いたこともないような悲痛な声で鳴いた。その度になぜか反射で「ごめんね」と俺は謝るも、その後も無慈悲に車は俺たちを揺らし続けた。


なんとか自宅に着くと、帰りを待ち侘びていた兄妹猫はどうしても瀕死の黒猫に会いたいようだったが、車の振動でもあの声を上げるのだから、事情も知らぬ巨体猫に戯れられたら文字通りポックリと死ぬかもしれないと思い、そそくさと別の部屋に隔離。そして仮に侵入してもその猫がまあ超えられないであろう高さのダンボールの中に黒猫は幽閉された。


兄妹猫は中に黒猫がいることが分かっているので、ドアが少し開くたびにどうにか侵入しようとする。それを止める、開く、侵入しようとする、止める、を何度も繰り返していたある時、ドアを開けた俺の足元を虚を突くようにものすごい速さで駆け抜けていった兄妹猫はその速度を維持したまま、予想だにしない高さのジャンプでベルリンのダンボール壁を飛び越え、真っ直ぐダンボールの中にダイブ。

「あ!」と俺が声に出す一瞬先に、その様子を察した父親が間髪入れずやけに落ち着いた口調で「大丈夫」と言い放った。

何が大丈夫なんだ!と口に出そうとしたが、確かに飛び込んだ部屋の中からは黒猫の悲鳴もバタバタという物音も何も聞こえて来ない。

慌ててダンボールに駆け寄り中を覗き込んでみると、ダイブした戦犯兄妹猫がぐったりと横たわる黒猫の身体を優しく優しく舐めているのを見て、力が抜けた。

きっと兄妹猫もなんとなく具合が良くないことを分かっていたんだろう。俺はしばらくそのままにして様子を見た。血を分け合ってるんだ、寂しかったよな、心配だったよな、お互い。


あの時なぜ父親がこちらすらまともに見ずに「大丈夫」と言い切れたのか、俺には今でもよく分からないのだ。なんでそんなことが分かったんだろうか。とても不思議な体験で、その時のことは今でもなんだか鮮明に覚えている。


事故の後遺症で動かなくなった後ろの片脚は「神経がくっついて数年すると動くようになることもよくある」と希望的観測の意見も多方から貰ったものの、結局十三年経った今もまだ動かないままで、金色の強膜の中に鋭く光っていた黒目は時を経てほのかに白く濁り、今や俺のことが見えているのか、認識できているのかどうかすら、俺には少し判断がつかなかった。




そんな黒猫を撫で回しつつ、父親の面会は明日しか出来ないとのことだったので、その日は母親から現状や近況を聴きつつ、子供の頃から通っているお好み焼き屋さんに行き、そこのお母さんと他愛もない話をした。お母さんは浅井健一の同級生らしい。当たり前のように「お米屋さんの息子でね〜」と言うので笑ってしまう。あと田舎は怖いという話をひたすらしていた。



翌日の昼過ぎに、父親に頼まれた飲み物を持って入院している市内の病院へ向かった。

田んぼに囲まれ日差し溢れる緑の海の中、ボドンと聳え立つ病院の内部はまるで伏魔殿のように複雑に入り組んでいて、母親に事前に渡された院内の地図を縦にしたり横にしたり逆さにしたりしながら目的の病室へと向かった。

やっとこさ辿り着いた病室の先で、区分けされたカーテンの一つを開けると、そこにはダンジョンのご褒美の宝箱ではなく、管が繋がれて少しグッタリした様子の父親が居て、掠れた声で「おう」と言った。


それから。

小一時間話をした。

癌とは別に胸に水が溜まっていてそれが苦しいということ、癌の進捗、症状、日々思うこと。普段家で話し込むこともなかった俺は少し気恥ずかしいようなことも話した。


父親がスマートフォンを慣れなさそうな手つきで操作をしながらカレンダーのアプリを開き、「大体この辺りから調子が悪かった」と説明しているなか、入院してから毎日その日のタスクに「入院 まだ生きてる」と入力しているのが見えた。まだ生きてるか。それに突っ込むと「本当に、まだ生きてる。って感じだよ。」とボヤいた。


面会時間は十五分という決まりらしいが、看護師さんも「ゆっくりしていってね」と時間を気にしないようにと暗に言ってくれているようだった。


帰り際、「佃煮が食べたい」と、ふとこぼした父親に「下のコンビニで買ってくるよ」と言ったものの、どんな佃煮がいいのか全く分からず、そのコンビニにあるありったけの佃煮から佃煮か?これはというものを買い届けた。

ごはんですよは先日一瓶開けたらしく、家に置いておいてと言う。

切実に早く帰って食べて欲しいと思ったので、持って帰って家に置いてきた。




東京への帰り道、東名高速に乗ってすぐまだ愛知も出ない頃に、神奈川で大きな地震が起きて御殿場から厚木まで通行止めと交通情報の看板が煌々と俺に伝える。愛知に着いた時には南海トラフの注意報が出ていたし、世界はめちゃくちゃだ。


自分の意思で初めてハイウェイラジオにチューニングして、ひたすらそれを聴きながら走り続けるも時間切れ、数時間後も変わらない状況下で御殿場で降ろされた俺は疲労でフラフラしながら箱根の山の中を走った。


皆同じ目的で普段走らない慣れない山道を誰に命令されるわけでもなく同じ動きをしながら進む。闇夜の中、まるで祭りの行燈のようにヘッドライトとテールライトをずらっと並べて点滅させながら進む様は、なんだかアリの行列のように見えた。

あのアリの行列のひとつひとつがどんな物語の中にいるのかは俺には分かりようもないが、俺たちは同じ目的を持ってそれぞれの待つ帰る場所へと向かう。


ダラダラと書き記した今日の話も、どこにでもあるありふれたような話かもしれない。

でも、どこにでもいるやつなんてどこにもいなくて、どこにでもある話なんてどこにもない。


同じように進む話の中で、仮に同じように傷ついても、誰かの痛みを分かることなんて出来ないし、変わってやることもまた出来ない。

でも同じような痛みを持った人には、その痛みを想像することは出来るはずだ。

希死念慮を持つ人の死にたいと、ない人の死にたいではまるで話が違うように。


御殿場から三時間、へとへとになって着いた東京の家で携帯を開くと父親から「タバコやめろよ、息が出来ないってつれえぞ」とLINEが来ていた。「タイミングみてやめるね」とやめる気がさらさらない返事をした。


そんなことを思い出しながら、それを一つ一つ文字に起こし、そしてタバコを吸いながら、今、ブログの投稿ボタンにそっと指をかける。