(昨日スナッフの話してたらちょうど目についたスナッフのCD)


CD。

長らくそれをそのメディアとして正しく活用した記憶がない。

プレイヤーからPCに取り込むことはあれど、わざわざそれを棚から引っ張り出して歌詞カードを熟読しながら齧り付くように聴いたのなんて、もう10年以上前な気がする。

腐っても現役で音楽に関わっている俺ですらそうなんだから、普段からCDを再生機に入れて楽しむ!なんて世のほとんどのリスナーはしていないんじゃないのか。


そんなもう何年もほぼ手をつけてすらいないソレがそこそこな物量を持って棚を圧迫するのを眺めて、「あー、もう処分すっかあ」と少しだけ物憂げに思い立ったのが昼過ぎであった。


学生の頃、CDショップなど地元になく、少ないお金を握りしめ毎週末足繁く通ったBOOKOFF。

いつ何時、何度行こうが、あぶらだことあふりらんぽのコーナーになにひとつない。それを確認するのが儀式なのだ。そこから順番に棚の終わりまでスーーーーッと眺めてお目当てのアーティストコーナーにはなに一つ変化のないことを確認する様はまるでパトロールだ。


いかんせんただですらないのだから、いわゆるアーティストの代表の音源!みたいなのはきっと数少ないフリーク達が買ってしまいどいつもこいつも軒並み無く、外道も「野音狂のアロハ」というめちゃくちゃ音の悪いライブ音源(これ14年くらい前にレミちゃんに貸したまま、まだ持っていて欲しい笑)とか、JAGATRAも裸の王様やニセ予言者ども、南蛮渡来なんかはなく、そらそれの1枚だけが貧乏学生にはちと辛い値段でずーーーっと置いてあって、いつも買いたいと思いながらも、きっと最初の1枚じゃないんだろうなぁ〜と思いながら毎週眺めていた。

しかも、全部高いのだ。全部高い。軒並み。かなり。だから買ったものはどれだけ思ってたものじゃなくても執念で聴いていた。あの執念が俺を強くした。

その後、上京して初めて探していた名盤の数々の姿をユニオンで確認した時は、写真だけのやり取りをしていた相手と初めて会ったような、そんな知ってるけどはじめましてという不思議な気持ちになったものである。


ユニオンといえば、東京に出てきてすぐ、初めて下北沢のディスクユニオンに行った時に、ガセネタのSOONER OR LATERが500円で置いてあるのを見つけてめちゃくちゃに興奮したのを覚えてる。あと壁に飾られる牛若丸なめとったらどついたるぞ!のレコードを見て本物だー!ともなった。パトロールするまでもなく目に入りまくる現物たち。なんだここは、楽園かよ。と予算と相談しなければいけないという贅沢な悩みまでできてしまっていたのだ。やはり地元に文化などなかったのである。


上京してもっと間もないユニオンも知らない東京赤ちゃんの頃は新百合ヶ丘のBOOKOFFも割とよく行ってた。

新百合ヶ丘とは言え地元とは比べものにならないラインナップで毎週3枚、必ず500円コーナーか250円コーナーで買って聴いてたな。あそこで岡村靖幸の禁じられた生きがいとか友部正人のにんじんとかに出会った記憶。


まだサブスクがなかった当時は、CDを買う時はポータブルCDプレイヤーを棚から引っ張り出して帰り道にわざと遠回りして帰ったりしてたな。曲がちょうどいいところで終わって欲しいから家の周りを何周もぐるぐるしたりして。でもまだ聴きたいからせっかく家に着いたのに荷物置いてわざわざ散歩しに行ったり。

あと学生の頃は3年間を通してノートが1~2冊しか使わなかったけど、一時期カバンにCDを50枚くらい詰めて学校に通ってたりもした。とにかく重いんだ、とにかく重いんだけど、あの重さが俺を特別なものにしてくれていて、無敵なんじゃないかなんて、そんな気分にさえしてくれていた。まるで魔法だった。


時は戻って2024年。

そんな思い出の塊が埃をかぶってしまっている棚をなんとも言えない顔で見つめる夏目青年31歳。

今やメディアとしては中途半端で、フィジカル面でも音質面でもレコードの方がやっぱり趣もある。

サブスクの手前、音源だけだと価値がなくなってしまって特典や映像やモリモリにつくCD達。なんだか不憫だ。

どちらがいいとか悪いとかではなく、時代が変われば聴き方も変わるよな。

頭サビの曲や歌始まりの曲ばかりが増えた音楽シーンでも、やっぱりきっとアーティストたちは曲の流れから歌詞カードのデザインまで気にしているし、気にしていない人は単に俺はあんまり好きではない。



思い出だけじゃ飯は食えないし、思い出で部屋が圧迫されて不便になって生活が滞るのも本末転倒だよな。

まあまだすぐに売りはしないし、ちょっとプレイヤーでかけて無理して最後まで聴いたり、歌詞カードでも見て「お、こんなスタジオで録音してたんだ」とか、無駄に長すぎる和訳の論評みたいなのを楽しんでからでもいいか。