男たちの挽歌 | 日々此好日-日本って素晴らしい-

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人生って素晴らしい。
日本って素晴らしい。

昨日刀ミュを見てきた、という記事は書きましたが。

その後どうにもこうにもよく眠れなくて…んで結果こういうのを書いてるわけですが。

書いたら少しはちゃんと整理できるのかな、みたいな感じで。

 

まあね

 

昨日の刀ミュの中身の話なんですけど(話の)

 

ぶっちゃけ、これはすごく思ってた。

 

まあ幕末天狼伝のときも少し思ってたことなんですけど。

 

近藤さんと土方さんて、新撰組やりながら、刀を振るいながら、倒幕派を粛正しながら

 

どこかで刀の時代の終わりを、武士の時代の終わりを、長かった徳川の時代の終わりを、どこかで感じてたんだろうな、と。

 

時代が変わっていくのを知識として認識していたわけではなく、どこかで肌で感じていたんだろうな、と。

 

問題は終わることではなく、どう終わらせるか、であって、誰かが幕を引かないといけないこと、というのがあって、だったらそれを自分たちが引き受けようじゃないか、といつからか、どこからか思っていて。

武士の時代の終わりの象徴が近藤勇の斬首であり

それを本当の意味で幕を引いたのが土方歳三であり

その全部を見ていたのが土方歳三の愛刀であった和泉守兼定と堀川国広であり

そんな新選組のぜんぶを引き受けたのがあの2振りであり

 

だからあの2振りはあんなにも共になければあらず

 

ゆえにトクベツなのだ、と。

 

陸奥守吉行もよく『刀の時代は終わった。これからは銃の時代ぜよ』と言っているけれど、そういってないと、きっとあんなにもそばにいて、坂本龍馬を守れなかった、龍馬のために戦えなかった自分を許すことができずにいて。

たぶんね

こういっちゃアレだけど

むっちゃんが一番時間遡行軍に近いところにいるんじゃないかな、と思うんですよ。

時間遡行軍って、銘なき所以なき、無数の刀剣の集まりだと考えてます。

その中には、銘はないけれど主に愛され振るわれて、共に戦ってきた刀剣だってたくさんあったはず。そして、主を守れなかった、だから主を守る、主が生きる歴史に作り替えたい、もう一度刀剣として、主とともにありたい…そう願う刀の付喪神たちなのではないか、と。

そう考えると、実はむっちゃんもそうだけど新撰組の刀剣たちが一番時間遡行軍、歴史修正主義者に近いところに位置する刀剣男士なのではないのかな、と思うんです。

時代は世界を飲み込み、この国を飲み込み、大きく変わっていこうとしていた。

幕末の刀剣たちは、それを主たちの元で自分たちも強く強く感じていた。

幕末組の刀剣男士はね

『願い』と『祈り』だったんだと思います。

 

龍馬はピストルを所持していたけれど、最後まで陸奥守吉行という刀を手放すことはなかった。

時代が変わっていく、もう刀の時代は終わりを迎えているとわかっていても、それでも最後まで刀を手放すことはなかった。

それはなぜか。

どれだけ時代が変わっても、龍馬の中に変わらない何かがあったから。

変わっていくものの中に、変わらない何かが必要だったから。

終わっていくものの中に、終わらせてはいけないと信じる何かがあったから。

その願いと祈りをその身に宿したのが陸奥守吉行だったから、きっと彼は刀剣男士になったんだと思う。

それはきっと新撰組の刀剣たちにもあって、きっと、長曾祢虎徹や和泉守兼定は、新撰組の祈りと願い、あの時代を生きそして新しい時代、先に進む時代を感じていても、手放せなかったずっと日本人の中にあったものの何か、だったんだと思います。

 

本当はわかってた。

刀の時代も武士の時代もとっくに熟しすぎてすでに地に落ちている果実だってことくらい。

それでも果実を落とした樹木の矜持はある。

時代にあがらう最後の抵抗ではなく、時代が進んでも残しておきたい、残してほしい、それは日本人、という根幹にある、何か。

だから刀は時代が過ぎて行っても、日本人の精神や心に寄り添う何かであるし、心を写す何かである。

ゆえに第二次世界大戦が終わった後に、戦勝国はその何かを恐れて10万とも30万とも、あるいは300万ともいわれる刀を集め、焼却し、あるいは海洋投棄して処分した。

 

心が何ものかに、二度とならないように。

 

それでもそこから70年以上経過しても、日本人の心は刀剣から離れることはなく、ゆえに、美術品として、あるいは魂のよりどころとして、今も現存し続ける。

 

150年前

動乱と混乱の時代に男たちが願いを込めて歌った挽歌は、今もそうやって語り継がれ謡い継がれ、願いとなり祈りとなり、日本人のどこかに住み続けている。

 

今刀剣男士がある理由。

 

きっとそれは

 

永遠に歌い継がれる挽歌と願いと祈りが、求められる時代にあるからなんだと、感じています。