夕陽を追いかけていたら、住宅地の外れに出た。
雑木林の裏側に続く細い道の途中。
決して新しいとは言えない建物の前に、
古びた木製の看板が立っている。

看板には、『 喫茶 夕影  』とある。
文字は薄れているが、そう読める。

こんな所に喫茶店があったなんて・・・
恐る恐る、私はそのドアを開けた。
店内は整っている。
気分が不思議と落ち着いてくる。

窓から夕陽が差し込み、アップルティーの甘い香りが漂う。
さほど広くはない店内から、穏やかな笑い声が聞こえる。

だけど・・・
マスターが一人、食器を拭いているだけで、客の姿はない。

私に気づくとマスターは、
笑みを浮かべてテーブル席を手のひらで示した。
そこは、夕陽がテーブルを斜めに半分だけ照らす席だった。
私は頷いて示されたテーブルに着いた。
そして、アップルティーを注文した。

「かしこまりました。
貴女がそろそろ来られるかと・・・
そう思ってお待ちしていました」

「え・・・⁈ どういうことですか、それは」

「驚かせてしまいましたね。失礼しました。
貴女がここを訪れることを信じておりました」

「信じていた、私を待っていた・・・
それって・・・、どういうことでしょう⁈」

「今、アップルティーをお持ちします。少々お待ちを」

カウンターの向こう側で、
マスターは穏やかな声でそう言うと、
グリーンの絵柄のついたティーカップに注いだ。

私を信じて待っていた・・・
それに、確かに笑い声が聞こえた・・・
どういうことなの・・・⁈

窓から見えるのは、夕陽を浴び絵画のような住宅地の端。
私は窓の外の沈みかけた夕陽を見つめた。

「お待たせしました。
こちらも、ぜひお召し上がりください。」

アップルパイーーー。
ティーカップソーサーの隣にそっと置かれたのは、
つやつやしたパイ皮の
甘酸っぱさと香ばしさを放つアップルパイだった。

「私にですか・・・⁈
ありがとうございます。でも・・・」

「何もおっしゃらずに召し上がって頂けませんか」

マスターは落ち着いた声で、優しく、そう言った。

「あ・・・、はい。それでは遠慮なく」

私はフォークで切り取り口に運んだ。

サクッとした香ばしい食感の中に、
甘酸っぱいリンゴが柔らかに広がる。
シナモンの風味も嫌味がない。

・・・これは・・・。

「あの・・・私・・・
このアップルパイ、以前にも食べたことがあります」

「思い出してくれたのですね。
そうです。あの時のアップルパイですよ」

あの時の・・・
そう、私はまだ小学生で幼かった。
これは、あの時のアップルパイ?

もう十年以上前のこと。
両親と私がこのテーブルを囲み、
父はブレンドコーヒーを、母はアップルティーを、
私はアップルパイを、それぞれ笑顔で味わったのだ。

私はマスターの横顔をそっと見た。
どことなく見覚えがあるような・・・
シワと白髪をなくしたら・・・
もしかしたら、父の大学時代の後輩の山城さん⁈

だけど、山城さんはあの日、父と一緒に・・・

「そのとおりです。
私は貴女のお父様と同じ大学の後輩。山城です」

心を読み取った。
私の考えていることを。

「や、やましろさん・・・」

「怖がらないでください。友里奈さん。
ご存知のとおり、私はお父様と同じスキー事故で死亡しました。
私たちは学生のときにスキーで親しくなったんです。
8度目の雪山。あの日、雪崩に巻き込まれ・・・」

「山城さん、もうそれ以上は・・・
おっしゃらなくても知っています」

「そうですね。悲しい話をしてしまいました」

マスターは頭を下げた。
私は黙って首を横に振る。

「どうしてここにいらっしゃるのですか⁈」

マスターは微笑みながら、ゆっくりとカウンターに戻った。

「喫茶店のマスターになることが私の夢でした。
夢が叶ったばかりでしたが・・・」

マスターは遠くを見るような表情で話を続けた。

「先輩に喫茶店の開店を知らせると、
貴女方ご家族がお祝いを兼ねていらして下さって。
あの時は嬉しかったですよ、本当に。
ええ、本当に嬉しかったんです」

私はマスターの表情を追う。
笑っているようにも、悲しそうにも見える。

「貴女方は、私が作ったアップルパイや、
コーヒーと紅茶を、嬉しそうに、美味しそうに
楽しそうに笑って味わってくれた。
とてもとても幸せな時間でした」

私を真っ直ぐに見て、

「もう一度、もう一度だけ
味わって欲しかったんです」

マスターは呟くように、そう言葉を続けた。

父母の笑顔が蘇る。
若かりしマスターの幸せそうな笑顔も。

「とても美味しいです。
アップルパイもアップルティーも。
私も懐かしさで幸せな気持ちです」

「それは良かった。
こちらこそ ありがとうございます」

「いいえ、お礼を言うのは私の方です、マスター。
亡き父の笑顔を思い出せました。
アップルパイの味も、穏やかなひと時も」

そう・・・、父は笑うと口元にシワができる。
母は、嬉しそうにフフフ、と微笑んでいた。
蘇るあの頃。優しい時間が流れていた。

「良かった・・・
それは何よりです」

「辛いことが重なって・・・
夕陽を追いかけて歩いていました。
気づいたら町外れの雑木林に・・・
そして、看板を見て」

「はい、存じておりますよ。
恋人とのことも、お母様の病気のことも、
今の仕事での悩みも・・・
ここは今回限りですが、今を楽しんでください」

「今回限りなんですか?
それでは、もう二度と・・・」

「はい、残念ですが、今回限りです。
お会いできて本当に良かった・・・」

マスターは優しく微笑みそう言った。

「ゆっくり一歩ずつ、また歩めますね、友里奈さん。
辛いことがあったら、思い出して下さいね。ここでのことを・・・
それから、当時の店名は『夕映え』でした」

・・・そうだった。

「確かに・・・そうでしたね。
マスター、そうします。
また一歩ずつ、歩を進めたいと思っています」

マスターは二度大きく頷くと、
すーっと、その姿を消した。

あ・・・、と思っているうちに、
ティーカップも食べかけのアップルパイも
テーブルも喫茶店の建物も、消えていた。

消えちゃった・・・
父に、私は元気だと伝言を頼みたかったのに。
アップルパイのおかげで笑顔を取り戻せたよ、と
伝えてほしかったのに。

私は雑木林の前に立っていた。
古ぼけた看板が雑木林の手前にあった。
薄くなった文字を見ると、
『 喫茶 夕映え 』

すごい魔法を使うのね、マスター。
ちゃんと店名も変えて現れるなんて・・・

ありがとうございます、マスター。
全部食べたかったけど、
懐かしいアップルパイもアップルティーも、
喫茶店の雰囲気もそのままに、再び出会えた。

たとえ、ひと時の、
わずかな時間の短い憩いだとしても。

最初に聞こえた、あの笑い声は私たち親子の・・・。
きっとそうなのね、マスター。

私はそっと手を合わせた。
看板の中にマスターの魂が眠っている。
そんな気がした。

雑木林を夕陽が照らす。
鮮やかな夕映えが西空を彩り、
穏やかな風が木立を吹き抜けた。




ーー 読んでいただき有難うございました。 by なつこ ーー