今回の戦争において、自分の考えが偏らないようにと、報道番組を毎日片っ端から見ているんですが、最近のキーウ近郊の映像を流すにおいて、どこも『悲惨な映像が含まれます。辛いとお感じになる方は、観覧をお控え下さい』みたいなことを前置きしていますね。

 

 

必要以上に辛いと感じてしまうことを、共感ストレスというらしいです。

 

あまりにも共感して、自分のことのように思ってしまって、すごく辛くなっちゃって、でもそう思うくせに、何もできない自分に腹が立ってむやみに落ち込んでしまう。

頭の中がぐるぐる、こればっかりなってしまう…

 

 

実は私、典型的にこれのようで、小さい頃からちょっと悲しい映画などを見ると、ず〜っとず〜っと何日も何日も、心の中でしつこいくらいに反復してしまう。

でも子供の頃は、皆そんなものなのだと思っていたのですが、どうやら違うらしい。

 

 

そういうのを共感ストレスというのだと知ったのは、2011年の東日本大震災の時。

あの目を覆いたくなる津波の映像。

遠く離れたところから見る、街が波に飲み込まれてなくなってしまう映像。

何もできない自分に腹が立ち、あの時は、このままでは鬱になると本気で思いました。

 

なのでその時は(今思えば自己防衛にために)、仲間を募ってチャリティーをしたり、必死で行動しました。

 

そして、そんな気質を持っている人のことをエンパスというのだということも知って、調べまくったりもしました。

 

 

そんなわけで、今回はもうあまり見ない方がいいと思うのだけど、やっぱり見ちゃうんですねえ。

なので、諦めました。

こうなったら、とことん付き合うことにしました。

 

幸いにも今は、これでもか、これでもかと悲しい画像を流すばかりの一般的な番組ではなく、色々なソーシャルで、勇気をもらえるような、力強い喋りくち口で爽快に思いを伝えてくれる人もいるし。

 

 

で、見すぎて、頭がぐるぐるしてきたら、ネコに話しかけたり、お散歩に行ったりします。ニコニコ

 

 

 

 

 

 

先日描いた食堂教会のすぐ近くにはパノラマエリアがあって、キーウを横切る大きなドニエプル川と、その向こうに広がる西側地区を望むことができるそうです。

 

ドニエプル川は、総延長2,285kmでロシアから源流を発し、ベラルーシを通って、ウクライナを東西に2分し、黒海に流れつきます。

 

写真で見る限り、川沿いには、広大な緑が広がっていていてとてもいい雰囲気。

 

ここが侵略されず、焼き払われることもなくて本当によかったです。

今は、キーウ周辺の街の悲惨な現状が流れていて、心が折れますが。ショボーン

 

 

 

それにしても今回のウクライナ侵攻で、ウクライナ周辺やウクライナの地図をよく見るようになりました。


私は、ウクライナ人の友人がいるくせに、クルミア半島侵攻が起こるまでは、「ウクライナってロシアと国境を接する国よね」くらいしか知識がなかった。

 

クルミア半島侵攻の時は、実は夫がちょうど黒海の海底調査に出かけていたので、心配したのを覚えています。

ルーマニア領域だったので、全く問題はなかったのだけど。

 

 

その後の東南地区の戦闘については、ウクライナって大変だ、かわいそう、くらいにしか感じなかった自分が情けない。

 

今回、キーウの街を描くためにネットサーフィンして気づいたのは、南東地区が戦闘中でも、ウクライナを旅行されていた方が結構いたのだということ。

私も行けばよかったな。

 

 

そういえば私もクロアチア紛争(1991〜1995年)が終わったすぐ翌年だったかに、クロアチアの海岸沿いを呑気に旅行したもんだった。

海岸沿いには、戦争の傷跡なんて微塵もなかった。

 

でもよくよく考えると、コソボではまだ戦争してたんだよね。

ユーゴスラビア紛争も、勉強しないといけないね。

 

 

 

キーウ・ペチェールシク大修道院

Monastero delle Grotte di Kiev Kievo-Pečerskaja lavra 

 

 

 

 

 

残念ながらウクライナでの戦争は、なかなか終わらない。

 

なので、出来ることを出来る範囲で

 

貧乏絵描きの私に出来ることは、ウクライナの絵を描いて、少しでもウクライナの文化をいろんな人に知ってもらって、そうすることでウクライナの人々と共感することかな?

 

よくわかんないけど。

でもやらないよりは、何かした方がいいと思うわけで。

 

ということで、ネットから写真をお借りして、インスタに投稿していたキーウの絵を、ここにもしばらく載せたいと思います。

 

 

ところでこのキーウという呼び方ですが、侵攻始まる前までは、キエフと書いていました。で、キエフはイタリア語ではキエヴKievと書くけど、英語ではどう綴るんだっけ?と思いwikiで調べたらこう書いてありました。

 

 

英語を初めとするラテン文字を使用する言語では、ウクライナ語の発音に基づく「Kyiv」の他に、かつてはロシア語の発音に基づく「Kiev」がよく使われていた。「Kyiv」はウクライナ独立後の1995年位に、公式のラテン文字表記として定められた比較的新しい綴り方である。

 

そして、すでに1ヶ月前には、こんなことが付け加えられていました。

 

また、日本発の報道においても、特に2022年のウクライナ侵攻以後は英語圏と同様の理由で、ロシア語の発音に基づく「キエフ」表記を「キーウ」に改める例が一部に見られる。

 

実際、最近の報道番組やネットニュースでは、キーウと呼ぶ方が多くなっているように感いじる。

なので、私もこれからはキーウと書こう!

 

 

さて、このキーウで一番大切にされている(たぶん)と思われるのが、このペチュールクシ大修道院。

 

 

10世紀、現在のベラルーシ、ロシア、ウクライナの祖先といわれるキエフ大公国(あれ?じゃこれもキーフ大公国と呼ばなくちゃか?)のウラジーミル1世がキリスト教(正教会)を国教化したことで、この辺りには多くの教会や神聖な建物が建てられたそうです。

 

その中でも最も大切なのが、1051年にキーウ郊外に建設が始まった、このペチェールシク修道院

 

ペチェラという言葉が「洞窟」を意味している通り、その始まりは信者による洞窟での禁欲生活。

そして、段々と多くの信者が集まると共に、1073年には大聖堂、その後いろいろな施設が造られました。

 

なので修道院と一口にいっても、大きな敷地内にある総合施設になっているそうです。

 

 

下矢印これも、その中の一つの食堂教会

 

 

 

 

その名の通り、修道士達の食堂がありました。

1893年から1895年の間に建てられ、この時期には、修道士の数が1,000人を超えていたそうです。

 

 

ペチュールクシ大修道院。

ゆったりとした敷地の中の、素晴らしい建造物の数々。照れ

 

なんで今まで行かなかったのかなあと大後悔。

でも、きっと行ける日が来るでしょう!

 

 

 

余談ですが、第二次世界大戦中の1941年、キーウがドイツ軍の支配下にあった時、ソ連のNKGBのスパイが大聖堂を爆破。

この事件は、ソ連のプロパガンダによって「ナチス・ドイツによる文化遺産の崩壊の一例」としてナチスによる蛮行であると歪曲され、事実は隠蔽されたそう。

 

大聖堂はソビエト連邦の崩壊後、独立したウクライナ国政府によって再建されました。

 

 

ロシア政府の嘘つきは、今に始まったことじゃありませんね〜。ムキー

 

またまた長〜い歳月が流れてしまいました。

 

ぼーっとしてたら、まさかのウクライナ侵攻が始まって、自称『大人のADHD』な私は、頭の中がウクライナ一色になってしまい、ローマ城壁巡りどころではなくなってしまいました。あせる

 

 

仲良くしているウクライナ人の友人がいるので余計かも。泣

 

私的には、2011年の日本の東日本大震災の惨状をテレビで見て、元々愛国心があまりない私でさえも、生まれ故郷の変わり果てた姿を遠くから見るのは本当に辛かったので、彼女の悲痛がオーバーラップ。

 

 

そんなわけでこの1ヶ月、ずーっとニュースを追って、ウクライナやロシアの歴史、NATOとの関係などを、まるで論文でも書くかの如く?勉強して、インスタには何枚もキエフ(キーウ)の絵をあげていました。

 

そして救援物資を集めている友人のところに薬を持って行ったり、フリマではチャリティー作品を持って行って、寄付を募ったり。

 

ほんと、どうしてこう、のめり込んでしまう性格なのか。キョロキョロ

 

 

 

 

ところが、1ヶ月たって、なんとなく支援をお願いしにくくなった感が…ショボーン

 

 

ウクライナ侵攻が始まったばかりの頃は、知識人や専門家以外は純粋にウクライナ支援だったように思う。

 

知識のある人は、”プーチンを追い詰めたのはNATOだ”とか、色々言ってましたからね。

 

 

でも戦争が長引くと皆うんざりしてきたからか、あるいは情報をしこたま溜め込んだからか、戦争しているのはここだけじゃない、難民はウクライナ人だけじゃない、戦争反対なら武器は送るべきじゃない、等々いろんなことが議論され始めるようになりました。

 

 

確かに、どれもこれもごもっとも。

 

武器を送っていたら、戦争反対とは単純に言えない。

世界では、あっちこっちで戦争があるのに、ウクライナばかりが報道される。

ウクライナ難民ばかりが優遇される。

 

 

でも今回の事件は、悪い意味でドラマティックでわかりやすいから、関心を持つ人がすごく多いのは仕方ない。

だからマスコミも異常に報道するし、インターネットで発信してる人もいっぱいいる。

 

 

でもだからこそ、これを機会にこういうことに興味をどんどん持って、ここから今まで無知だった色々な世界状況に目を向けていけばいいのでは?と、単純に私は思う。

 

実際、ウクライナのおかげで、って言ったら変だけど、ここ以外の戦争にも関心を持ち始めた人が多くなったし、今日見た報道番組では、ある方が ”ウクライナ侵攻は、欧州の目覚まし時計になった”という言い方をしていたけど、同じように人々の目覚まし時計になればいいと思う。

 

 

世界の戦争、世界の難民、世界の子供達、世界じゃなくても困っている身近な地元の人たちのこと。

 

とりあえずは、困っている人達を助けよう。

子供達の未来を明るくしよう。

 

出来る範囲で出来ることから。

ふとん1 PORTA LATINA ふとん3

 

あっという間に2月になってしまいましたが(汗あせる)、本日はラティーナ門です。

 

この門を通るラティーナ街道は、アッピア街道と同じくナポリ方面に向かって伸びています。

でもこっちの方が古いんだそう。

 

アッピア街道は軍事目的として、ひたすら真っ直ぐ、一刻も早く軍隊が目的地に着くように整えたけど、ラティーナ街道は、地形に沿って山あり谷あり。

 

なので、アッピア街道ができてからは、こちらはマイナーな道になってしまったのだそう。

 

ま、そりゃそうでしょ。真っ直ぐな方が楽だもん。笑い泣き

 

 

下矢印でもとにかく、この門、なんだか素朴でとっても気に入りました〜。

周りの住宅街もいい感じ。

 

 

 

下矢印ん?門の向こうに何やら気になる建物が…

 

 

 

下矢印門を潜ってみると、奥にはとってもいい感じのラティーナ街道が続いていました。

 

 

 

で、この建物は、十字架があるのだから、教会?礼拝堂?

入り口の上にある紋章は誰だっけ?

 

ま、とりあえずスケッチ!(壁のいたずら書きは、もちろん省きます口笛

 

 

 

 

 

はい、帰ってから調べて、名前も入れました。

 

教会の名前は、サン・ジョバンニ・イン・オレオ教会、というか、礼拝堂。

 

 

ん?オレオ?美味しそうな名前〜ラブラブって思ったら、実は恐ろしい話が!

 

 

サン・ジョバンニとは、キリストの弟子で福音書の黙示録を書いた聖ヨハネのことです。

 

そして伝承によると、なんとこの場所で、煮えたぎった油の中に浸されるという迫害にあったそうです。それでも火傷ひとつ負わなかったという奇跡の人。

 

 

そうか、だからオレオ(oleo)=オリオ(olio)=オイルなわけね。

 

油の中の聖ヨハネのための礼拝堂!びっくり

 

 

この場所には最初、中世の頃に建てられた礼拝堂があったようですが、16世紀初頭、教皇ユリウス2世時代に再建され、もしかしたら設計はブラマンテとか、ジュリアーノ・ダ・サンガッロとか?

 

はっきりとはわかっていないようですが、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂の建築主任になったブラマンテだったらすごいよね。

 

でも彼は忙しくて、それどころじゃなかったかも!笑い泣き

 

 

上部のヤシの木とユリの花の切り妻部分や、薔薇の花をモチーフにした球は、パオルッチ枢機卿の一族のための礼拝堂として、1657年にボッローミニが修復した時のもの。

 

この頃はもうバロックだから、ちょっとゴテっとしてるのね。

 

入り口の上の紋章は、その当時の教皇アレッサンドロ7世の出身であるキージ家のもの。

 

 

 

薔薇モチーフの球のオリジナルは、すぐ近くにある、サン・ジョバンニ・ア・ポルタ・ラティーナ教会にあるらしいので、もう少し暖かくなったら、このラティーナ街道をお散歩しながら行ってみよう!

 

 

本日もお付き合い、ありがとうございましたラブラブ

 

 

カメラおまけの写真

 

 

オスティアをお散歩してたら、歩道にこんな標識見つけました。

犬の落とし物は、ちゃんと拾ってね!ってことですねビックリマーク