★これは紛れもなくただの日記で、ほかの一切の目を気にせず自分の内側で行われたことを記録するもの。
ストーリーや起承転結があるものでもない。読むも読まないも、それはあなたの自由です。合わない、と思ったらページを閉じてくださいね★
day1→☆
day2→☆
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"もう、私はやらない。"
「名まえ読み」の反響は私の想像を上回った。
人にもよるけど、やはり、というか「名まえ読み」はその人の現在の状態を伝えてくるという性質を持っていることもわかったし、つまり、変化することもあり得る。その名まえたちは生きていた。
楽しかった。単純に夢中だった。
でもどこかで、恐れのようなものがあった。
昔から「何かを妄信する」ということが苦手だった。嫌悪していたといってもいい。ただの生まれ持った性質かもしれない。
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寺で生まれ育った。小さな寺だし信者さんは昔からいるほんの数人だけ。住職(祖父)もずっとサラリーマンをやっていた人。主に霊園経営で生計を立てている。
語弊があるかもしれないけど、「宗教」というものが、得体のしれない「なにか」をただひたすらに信じること、だと知ってからは(私が子どものころサリン事件とかもあった)なんだかちょっぴり自分の家が恥ずかしかったりもした。
でも、もっとさかのぼって小さいころ、私にとってその「本堂」は、
とても静かで、ひんやりとしていて、目を閉じると自分と深くつながれる場所だった。
私はよく知っていた。
その「なにか」は、そこかしこにあることを。
木々のざわめきや光の揺らぎ、滴り落ちる雨粒。
私はこの星の一部だった。
その「なにか」は、地球の輝きのようなものだった。それをよく、知っていた。
その「なにか」は、あのおじいさんにも、あそこで泣いてる赤ちゃんにも、スーパーで会うおばさんにも、みんな、「ある」ことを。
もちろんそれは、私の中にも。
ああ本当に、私はたくさんたくさん、忘れてきた。置いてきてしまった。
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6月が始まった。長男の小学校も始まった。
新入生の長男の、初日の登校日を1日勘違いしていた。登校班の班長さんが心配そうに声をかけに来てくれて気づいた。
文字通り真っ青になり、いきなり登校日になってしまった緊張でいっぱいの長男を申し訳なさと不甲斐なさでいっぱいの中、手をつないで学校まで送った。授業にはぎりぎり間に合った。
登校班のメンバーや夫含め、周りはみんな笑ってくれた。
そうゆうこともあるよね、と。
その次の日だかに、次男の保育園を文字通り「すっかり」忘れた。長男を送り出してほっとして、次男の送迎まではまだ余裕があるな、と思ったところまでは覚えているけど、そのあとなぜか「すっかり」忘れて、5分過ぎたところで夫に「あれ、保育園は?」と言われ、ぞっとした。
私は思い出していた。中学生くらいまではどちらかといえば優等生だったことを。
「時間」や「決まりごと」で動くのがとても苦手だったので、ものすごく入念に、「準備」していたのだ。そうしないと、とんでもないおっちょこちょいをやらかすから。
長男は友達や先生がたくさんいる場がすごく好きだ。もともと人懐こいし、たくさんの人の中にいることで自分を鼓舞して楽しみながら頑張れるタイプだ。つまり、今のところ学校という場がとても楽しいようだ。
子どもが頑張りたい、と思ってることは全力でサポートしたい。
せめて当たり前のことはしてあげなきゃ。
こんな、ぼーっとしてる場合じゃない。こんなことしてる場合じゃない。
ちゃんと、しなきゃ。
私は「名まえ読み」をもうやらない理由を探していた。
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今はただ、依頼者の可能性や輝きを言葉にすることに、子どもみたいに夢中になっているけど、自分は特別だ、と今後も1ミリも思わないでいられる保証があるだろうか。
私が誰かを救ってあげてるんだ、という思いがこれから先も出ない保証は?
よくわからないけど、それらはもっとも私が恐れることだった。
そういう思いが出たとしたら、それはもうデッドエンドだ。もちろん、言葉は降ってこないだろうし名まえなんて読めなくなるだろう。
「名まえ読み」を始めようか迷っていた時に散々けしかけてきた私の中の強気な「なにか」は、うんともすんとも言わなかった。
どちらかといえば、私が悩んでいるそれらには興味がない、という感じの無言だった。
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ネットショッピングをしていたある夜、なぜ、どこからそんなものをお勧めされるのかわからないけどおすすめ商品に
「オラクルカード」
とあった。
いつもなら気にも留めないのに、そのカードが気になってしょうがなかった。
ネイティブアメリカンのスピリットのオラクルカードだそうだ。
思わず買い物かごに入れていた。
オラクルカードがなにかも、詳しく知らないのに。
買わなきゃいけない気がした。
そのカードたちは驚くくらいエネルギーに満ちていた。1枚1枚が、ずっしりと重かった。
説明書きには、なんだかあやしげな(笑)文句がたくさん。でも、なぜかすごくじんわり懐かしい感じで、肌にも心にも馴染んだ。
1枚1枚のカードを読んでいると、鳥肌が立った。
私が「名まえ読み」で降ろした言葉たちや伝えようとしていた世界たちと、それはとてもよく似ていた。
つながっている
全部、つながっているんだ。
気持ちを落ち着けて、少し深呼吸をして、カードをシャッフルし、並べてみた。
これ、と思った1枚を裏返してみる。
”スピリットダンサー”
「手放して、生命に”イエス”といってください。ハートが望むままに踊ってください。あなたを縛る因習や束縛は捨ててください。生命のリズムに波長を合わせるのです。笑いながら、探検しましょう。
あなたは自由になるためにこの惑星にいます。いつも他人の期待に応える必要はありません。ここに存在するのは、探求し、拡大して、驚くべき自分自身と出会うためなのです。もちろん、普通の生活も大切ですが、たまには大喜びで両腕を放り投げ、踊りだしましょう。」
しばらく胸がいっぱいで、動けなかった。
「名まえ読み」は、単純に喜びだったし、救っているものがあるとしたら、それは紛れもなく私自身だった。
信じられないくらい輝いて、誰一つ同じじゃない、個性にあふれたその名まえたちに、私自身が何度も何度も、勇気づけられてきたのだ。
たくさんあったはずの悩みはもう去っていた。
やってみよう、私のペースで。
それを望んでいる人がいる限り。