「共犯幻想」真崎守という激流
ある方のブログを読んで、久しぶりに真崎守の本を手に取った。
若い世代には馴染みのない名前だ。

手に取った本は「共犯幻想」という。ハードカバーの上下巻、合わせて1000ページ近くの大作。
今の時代、何十巻という連載ものが普通にあるから、1000ページは「大作」とは言えないのかもしれない。
それでも、この本は「大作」だと思う。コマに込められた意志の密度とでもいうようなものが、この作品にはあるから。
この漫画が描かれたのは70年代の初頭。私はまだ小学校にもあがっていない。
高校で起きる学園闘争の一コマから物語は始まり、主人公達の内面のと外部に対しての両方の戦いが緻密に展開する。
でも、いわゆる「反体制運動」が主の物語ではないのだ。
彼らの個人がどう生きるべきか、それを選択していくために、内面に深く潜っていく。
真崎守の絵は、常にナイフの一点を見つめるような、張り詰めた緊張をもっている。
生々しいまでの切なさやつらさが全部込められている絵だ。渇いていない、しかし潤っているのでなく、涙や汗や雨の中で、あるいは血で、濡れている。
真崎守の作品にであったのは中学にはいってから。
つまり既に彼の全盛期ではなく、リアルタイムの作品にあうことはなかった。
しかし一冊の雑誌に復刻されていた短い話、その絵、力に強烈に惹かれた。あとはのめり込むのに時間はいらなかった。
真崎守に出会う前に、永島慎二の作品にも感銘をうけた。永島慎二の世界は渇きをもっていた。
子供だった私の心にどうしてそんな渇きを感じることができたのか、今もわからない。
真崎守の作品は、その渇きになだれ込んでくる激流のようなものだったかもしれない。
本気で考えたことがある。
何故、今自分は子供でなければいけないのだろうと。
どうして、この作品が生まれ出た世界に私はまだいなかったのだろうと。
それから何年も何十年も経っている。
私はまだ考えている。
渇きと激流は、私に何を与えてくれたかを。
若い世代には馴染みのない名前だ。

手に取った本は「共犯幻想」という。ハードカバーの上下巻、合わせて1000ページ近くの大作。
今の時代、何十巻という連載ものが普通にあるから、1000ページは「大作」とは言えないのかもしれない。
それでも、この本は「大作」だと思う。コマに込められた意志の密度とでもいうようなものが、この作品にはあるから。
この漫画が描かれたのは70年代の初頭。私はまだ小学校にもあがっていない。
高校で起きる学園闘争の一コマから物語は始まり、主人公達の内面のと外部に対しての両方の戦いが緻密に展開する。
でも、いわゆる「反体制運動」が主の物語ではないのだ。
彼らの個人がどう生きるべきか、それを選択していくために、内面に深く潜っていく。
真崎守の絵は、常にナイフの一点を見つめるような、張り詰めた緊張をもっている。
生々しいまでの切なさやつらさが全部込められている絵だ。渇いていない、しかし潤っているのでなく、涙や汗や雨の中で、あるいは血で、濡れている。
真崎守の作品にであったのは中学にはいってから。
つまり既に彼の全盛期ではなく、リアルタイムの作品にあうことはなかった。
しかし一冊の雑誌に復刻されていた短い話、その絵、力に強烈に惹かれた。あとはのめり込むのに時間はいらなかった。
真崎守に出会う前に、永島慎二の作品にも感銘をうけた。永島慎二の世界は渇きをもっていた。
子供だった私の心にどうしてそんな渇きを感じることができたのか、今もわからない。
真崎守の作品は、その渇きになだれ込んでくる激流のようなものだったかもしれない。
本気で考えたことがある。
何故、今自分は子供でなければいけないのだろうと。
どうして、この作品が生まれ出た世界に私はまだいなかったのだろうと。
それから何年も何十年も経っている。
私はまだ考えている。
渇きと激流は、私に何を与えてくれたかを。