日付が変わり午前3時、とうとう出港の時を迎える。船には船首両舷の船底に配置してある燃料タンクに約一tの燃料とその上にある保冷設備に約500㎏の氷、そして飲料用と炊事用で船尾船底に約一tの真水を積んでの出港だ。喫水は空の状態から40センチも上がり、航行ギリギリの高さだ。左右に配置した燃料タンクが均等に減るように、供給バルブを調整し、エンジン点火。40年物の古いエンジンだが、手を加え整備をし、尚も現役を続けている。大きな振動とともに、船全体が鼓動をする。船を固定していたロープが解かれ、徐々に岸を離れていく。待ちに待った出港だ。

 
エンジン音が響くので、いつもよりも大きな声で色白!もう逃げられないからな!と老人が叫ぶ。望むところですよ!と返し、徐々に離れていく岸を見つめ、私はこれから始まる、未知の世界への期待感に心躍らせていた。港を出るとすぐに南進し、島影を左に見ながら進む。とても穏やかな海で、老人が行きは時化る。と言っていた事は間違いだったか、と思い、訪ねてみると、今にわかるさ、との返事。とにかく足の遅い漁船は時速5キロほどでゆっくりと走る。南の岬を越えるまでに4時間近くかかり、その間は私が舵を握り進んでいく。

 岬を越えて、東へ針路を変えてから、私は地獄を見ることになる。老人がそろそろ代わるぞ、と言い、それに従い、船室を出る。事前に代わった後はトローリングの仕掛けを流せ、と言われていたので、その準備をしていると、突然船首が上へ持ち上げられる。感じたことのない違和感に、何事だ?と考えていると、今度は急激に船首が下へ引きずられる。声にならない声をあげ、慌てて船室へ向かうと、不思議そうな顔で老人がこちらを見る。

 その間も船は上下に揺られている。

 私の顔を見て老人は笑いながら、ようこそ、4メートルの波の世界へ、言い忘れていたが、漁の期間中は常にこんな感じだぞ、と続け、もうちょっと波が高いと思ったのだがな~と悔しがる。その姿にピンときて、老人に出港をずらしたのは、敢えて波の高い時を選んだからですか?と聞く。老人は意地の悪い笑みを湛えて、そうだよ、しかし予想より波が低かったわい、と言って、また笑い出す。

 あきれたというかなんというか。老人らしいが、あとで何か報復してやろうと思い、トローリングの準備に戻る。マグロ用のルアーを流す簡単な仕掛けだが、ここでマグロがヒットすれば、すぐさま引き返し、マグロを水揚げして大金ゲットというボーナスステージだ。しかも、デビュー戦の新人が乗る船は今までもマグロを仕留めることが多くあったため、周りの漁師たちからも、今回はすぐ帰港だな、と、からかわれていた。その気になった訳ではないが、やはり期待はしてしまう。

 ヒットした時点でベルが教えてくれるので、放置してあとは本でも読もうかという時に、体に異変が起きる。初体験の揺れと、鼻を突く重油の匂いにやられて、激しく嘔吐をしてしまう。老人が水を差し出し、思ったよりも持ったな、といい、漁場に着くまでは、見張りしかやることがないから、しばらく休め、と言ってきた。

 絶えず迫りくる吐き気が限界を迎えたため、その言葉に甘え、船尾でうずくまった。ここからまる三日間。ろくな食事もとれずに船酔いと戦うことになる。船は未だ、4メートル持ち上げられては、すぐさま4メートル下がる、を繰り返している。

ふと船首を見るとその先には次の波が壁のように迫ってくる4メートルの頂上から見えるのは、見渡す限りの荒れた海だ。次から次へと襲い掛かる灰黒い波の壁は、人間を絶望させるのに十分な畏怖を抱かせる。地獄だ、と思ったが後の祭り。帰りたくても帰れないのだ、と覚悟を決めた。

老人はその間も涼しい顔で波に対して船が直角になるよう操船を続ける。海で怖いのは、三角波と追い波だ。どんなでかい船でも一発で沈んでしまう。それだけ避ければ何とかなるさ、と言っていた老人の言葉を思い出す。


 正確には覚えていないが、15時間ほど揺られた後に、波が今までの半分以下まで落ち着いてきた。老人がこれからしばらく、だいたい四日はこんな感じだろう、と言い煙草を差し出す。気持ち悪くてそれどころではない。

断ると、だまされたと思って吸ってみろ、楽になるから、と。分かりました、と言い煙草を受け取り、一本吸う。

だまされる。

老人は隣で腹を抱えている。言い返したいが、嘔吐でそれどころではない。一通り出し尽くす頃には、気力も残っていなかった。波が落ち着いてからは、船は自動操舵に切り替わり、何をするともなく、ただ時の流れが過ぎ去るのを待つだけの時間が訪れた。唯一の娯楽はラジオだったが、FM波は陽気な女性DJのたんたん、たんたん誕生日~♪と言う奇妙な歌を最後に、言葉を伝える事をやめた。