なちゅ☆、おかげさまで無事に帰着しました。

ご心配頂いた方々、本当にありがとうございます。

この数日をまとめて報告します。


経過はまず3/9から宮城県栗原市のくりこま高原に出張で滞在している際に震度7の

地震に遭遇しました。

コンビ二で車を止め、建物に入った際に揺れを感じ、出口へ向かうとお客で殺到しました。

何とかその外へ出ると、とたんに立てないほど揺れる状態になり、右ひざ、右手を地面に

付けて、倒れてくる物があれば横に動こうと考え、その場で約3,4分止まってました。

目の前の看板は大きく揺れ、前回Blogの飯屋の窓は割れ、隣の建屋のガスが

漏れ出して行く場を失ってしまいました。

でも、まずは安否確認を同行の者ととるためホテルに戻ってみると、無事に会えて

一安心。しかし、部屋の中はテレビが落下して破損し、水は止まり、電気は消え、

ガスも供給されていない状況でした。また、携帯電波は震災当日まではつながって

いましたが、次の朝からは音信不通状態に入りました。


最大震度でありましたが、なちゅ☆には怪我も倒壊も無く、場所は海から離れていて、

津波の被害からは逃れることが出来ました。のちにニュースで確認し、海側の方々が

多くの被害に合われたことを聞き、非常にショックで苦しい思いでした。同じ宮城県でも

こうも状況が違うことで、もっと大変な方々がいる、もっと何か出来るのではと周りと話し、

力を合わせて生きること、前へ進むことを誓いました。


ホテルでは電気・水道・ガスが無い中、2日間一生懸命に食料を提供してくださった

ホテルエポカ様には大変感謝しております。今も戦っておられることと思います。

しかし、いつまでもこうやってお荷物になる、続けるわけにはいかないので出ることを

決意しました。


新幹線も動かず、バスも無い中、自分には車が有り、5/8程度のガソリンがありました。

よって、東北道は無理、国道4号は被災と渋滞で不可、何もわからないまま山形へ向かい

山越えして日本海に抜け、新潟に行き、関越道で帰る策を実行しました。

被災状況未確認、ガソリン切れ、購入不可、雪や凍結状態等の全てに対し勝負をし、

これに他2名の仕事仲間と、震災で知り合ったおやじさんを1名乗せて9:30に出発。

数時間後に山形酒田市に入り、電話が通じて東京へ一報、生きてるコールをまず入れ、

ガソリンスタンドに長蛇の列ですが、ガソリン確保に成功。

凍結もほぼ無く、快調に進んでコンビニで食料と飲み物を仕入れ、日本海が見えてきました。

ずっと海沿いを走って行き15:30に新潟へ到着。

270kmを県道・国道で6時間で走破しました。そこで2名と別れ、彼らは上越新幹線で

移動されました。

なちゅ☆ともう一名は一心同体でここから370kmの関越道・圏央道・中央道で東京へ向かい、

こちらも順調でラーメン食べて20:30に帰着出来ました。

11時間の運転は目指すものがあったので疲れも無く、そして何より無事に帰京出来た

ことで落ち着くことが出来ました。なちゅ☆は帰る場所があり、たどり着くことが出来ましたが、

まだまだ、被災地の方々はライフラインが復旧せず大変な状況でかつ、食料・怪我・寒さ・

余震で落ち着く時が無いことと思います。

本当に大変な思いをしていることを感じ、何か出来ることはないかと沢山の考えが頭を

めぐっています。食料や飲料を提供したい気持ちですが、個人で今出来ることは募金

することと考えます。気持ちですが、送れるように明日、行動します。



今回、電気・水道・ガス・電話のどれもが欠けると苦しいことを身に感じ、そして全てが

無い時のことを経験として活かし、伝え、今後の準備・対策・フォローをしたく思います。

星の明かりだけで過ごした夜は一生忘れません。そして支えあえた仲間の絆も深く

孤立しなかったことで勇気が出ました。携帯の電波がつながった時の着信有り履歴、

これも思い出です。約70件の着信、内8件は台湾からのもので、心配してくれてた

こと、忘れないでいてくれてたことが宝物となりました。そして、メッセやBlogでコメント

くださった方々、ご心配ありがとうございました。本当に感激です。



なちゅ☆、次には恩返し出来るように成長し、温かく深くつながれるようにしたいです。





今回、亡くなられた方々、ご冥福をお祈りいたします。行方不明の方々、見つかることを

期待し、家族・知り合いの方と再開出来ることを祈っております。

怪我をされた方、早く良くなりますように・・・お大事にしてください。

そして、自衛隊の方、ボランティアの方、協力されておられる方、ご苦労様です。

自分の体調も考慮され、頑張ってください。宜しくお願い致します。




3/14夜  なちゅ☆