母の月命日までに・・・ | なつなつなっつ

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いらっしゃいませ。

母は生前耳が遠かった
補聴器をずっと欲しがってた

父もかなり耳が遠い
なのに通販の安い『集音器』を買ってみせて「これで充分だ」と言い張ってた

母が残した物は沢山あったが、
「がまんして生きるほど 人生はながくない」
テレビや本から心に響いた言葉をメモする人だった

がまんしていたのは補聴器に関してだけではないと思う

友達と出掛けて食事やカラオケを楽しんで帰ってきても
「ちょっと買い物」の予定があれこれ必要になりそうだからと、ゆっくり選んでいたら帰宅が遅くなったりしても
父の様子で母は、自分一人が楽しんで来た事を良く思っていないと長年連れ添ったからこそ感じ取ってしまうのだとよく言っていた
「昨日はそれだった」とか「この間は楽しんで帰宅した事に対して良かったなって言ってくれた」とか母は常に、顔色を窺わなくてはいけないという束縛から逃れたがっていた
できれば毎回認めてくれる人に変わって欲しがっていた

でも
それも一時期にいろんな媒体で
「他人を変えるには自分が変わるしかない」という言葉に触れて
嫌な思いをしてイライラするし八つ当たりもするけれどその度に最後にはこの言葉の領域に達し、溜飲を下げているようだった

そうだし
更に晩年は出掛ける事や自分だけの楽しみを見つけても罪悪感を抱かないように意識して過ごしているようだった



さて、補聴器の話に戻る

母は自分が耳が遠いだけではなく
父が急激に自分よりも耳が遠くなるまでを一緒に過ごしていて肌で感じていた

「お互い歳だから」でやり過ごすのも
年齢なりの耳の遠さだと諦めて過ごすのも
父の価値観に合わせているだけで
母の場合は若い頃から、難聴ではないのだが耳が遠く、更に父から「まったくお母さんは耳が遠いんだから!」と、労わるのではなくバカにされていた

70代後半になってきて母は
自分の残りの人生なのだから
父の自分だけに見せる顔色ばかりを気にしないようにすると心に誓ったようだった
(それでもどうにも腹が立つ時も完全になくなったわけじゃなかったが。。)

父が耳が遠くなってきてからは
束縛されすぎたものが蓄積した母がたまに父にキレて口喧嘩はしていた

両親の部屋の真上の部屋にいる私にもそういった時のような言い合いが聞こえてきて
「お母さんまたキレてるんか?」と思う事が増えた
後で「何かあったん?」って聞くと
「喧嘩をしていたわけではない」「あんたにまで聞こえていた時間には大切な話をしていただけだが、お互い耳が遠いから相手にはもちろん自分にもイラついて口調が荒くなっていたのは確かだ」と言う
その話の内容も教えてくれるが、確かに大切な事すぎて語りがヒートアップする案件もあったり、本当にたわいもない話だったりだった

だから
まあまあ自分の人生を楽しく過ごそうとするようになった母は
余計に今まで遠慮していた高額であるのが当然の補聴器が欲しいと言えずにいた事も
「お父さんと一緒に!」補聴器を着けて!声を張り上げ合わず!穏やかに会話をしたい気持ちを、父の機嫌の良い時など(ここはまだ父の顔色窺ってはいるがw)に折に触れ伝えていた
私からも母の味方としてではなく、娘としてというか、第三者からの母の意見に賛成である事を伝えていたが、前述のとおり1万円前後の『集音器』を買ってみせるくらいしか重く受け止めてもらえないまま今日まで来てしまった

そんな中
父がパーキンソン病であると診断されて
父には耳が遠いだけでなく、言葉がすぐに出てこない症状も現れていた
言いたい事の一言目が出るまでに時間がかかる初期症状を経て、食事中は一口を口まで運び、咀嚼し、誤嚥しないよう飲み込むまでに時間がかかるようになると、父を思いやって母が手を出すと「自分のペースで自分の食べたいようにしてるから余計な事するな!」と機嫌悪くなられたりしていたので、食事に集中させた方が良いと判断した母は「ただでさえ美味しく感じられない食事の時も一緒に食べていても会話などないから楽しくない」とこぼすようになっていた

父は夕飯が早く、コップ一杯の晩酌をするので
満腹と程よい寝酒で夜18時にはベッドに入り、
テレビを点けたと思ったらもう寝ている事が多い

喜寿のお祝いに子供達からBSを見られるようにしてからは
夜の18時でも時代劇や夫婦揃って好きな「寅さん」や「釣りバカ日誌」などが観られるので時には最後まで一緒にああだこうだ言いながら観ていられる事もあったようだが、大抵は母がふと「今の面白かったねえ」などと言って父のほうを見るともう寝ている事がほどんどだったようで、
生活リズムが夫婦でまったく同じわけではないからこそ、会話をする時間(庭の手入れや昨年春には返してしまったがそれまで畑を借りて農家で育った両親の共通する趣味の時間も含め)には他人から喧嘩しているように聞こえる会話ではなく穏やかに過ごしたかったのだ

「自分の人生、残りの人生はできるだけ自分の思うように生きなければ後悔する」と
母は補聴器を買うお金を貯めつつ虎視眈々とその時を待った
チャンスが来たのは昨年の夏くらいであったか、新型コロナワクチンを受けに行く近くの公民館で、補聴器のお試し会が開かれていると知り、ワクチンを打ったその足で父と行ったそうだった

大型のキャンペーンであるからどれを選んでもかなり割り引いてもらえるとの事で、
「お父さんはその気にならないならそれでいいけど、私はこのキャンペーン中のお店から購入する」と母は決断した

「お父さんは贅沢を嫌う人だから(正味これは贅沢ではない話だ)、お母さんだけが購入するとなったら、さすがに片耳しか購入できない」というちょっと切ない決断ではあった・・・。

10月29日に外販の担当2名の方が来てくれるから、金額的にも実際試した感じでも「コレだ!」と思う物は決まっていて、その他何種類か持ってきてくれるけど、その場で決めている物を購入するんだと楽しみに振舞ってはいた母だが。



母が後に死因となるきっかけの救急搬送の日の昼間、2023年10月23日、母を口腔内外科に連れて行く30分程前に「いつでも出られる準備ができたよ」と階下に降りて行くと、父は庭木の剪定(パーキンソン病と分かった時点で医者からは高い所での作業禁止!脚立なんて言語道断!と言われていたが、本人がやりたいからやるんだと言い出したら、情けなくも恥ずかしい話だが家族は止められない)、母はそんな父を見守るように、だけど見守っている事に気付かれないように草むしりをしていた。

出掛けるまで30分はあるから、準備もできていることだし、私も母の手伝いをしながらその日の早朝の出来事を母から聞いた。
「早起きのお父さんに合わせて一回早めに起きたけれど、まだ少し眠いので横になって少しうとうとした後、透析のない日でも毎日朝晩の血圧を測ったのだが血圧が低かった。血圧が低い日が続いているのでまだ庭仕事をしたくてうずうずしながらも部屋にいた父にその話をしようとしたら、すんなり簡潔に話をできなくて、お父さんから『無理に話そうとしなくていいからゆっくり言いたい事が頭の中で整理できたら言えよ?』って怒られた」
といった事だった。
母は『怒られた』と感じたようだが、最近の父はパーキンソン病の症状が進行していて、父自身が言いたい事が頭でまとめられない不便さがあると隠さずに家族に報告している事だから、自分の体験を素にかけた言葉であろうと私は感じた。

感じたのだが、感じた事を私は母にきちんと言ってあげたかどうか
言えていたのなら良いが、「そっか~」くらいで終わらせていたのなら
後悔が一つ増える。

なんならここ数年の私は、長年の精神疾患において吃音と言ってよいであろう、自分にとって重大だと過敏に捉えてしまった事に関してなら余計にドモったり、一定の間隔で言おうとする単語の一言目をすらりと言えずに頭の文字を何回か発声してからじゃないと話が続けられない事がある。
それに加えて父のパーキンソン病の言葉が出にくい所も病気が違うと知らない人なら、この父娘は・・・と思われるであろう。
さらに加えて、とにかくお喋りな母だが弟に言わせると話が長いだけでなく、結論から話してくれればいいのに事の始まりから時系列でじゃないと言いたい結論まで達しない母。(←実はコレ、弟と話さなければいけない事の増えた私も指摘されるw)
それが両親と私、3人の日常なので、父の低下した判断力では母の異変にも気付けなかったようだ。

さて、時間になり、母も病院に行く準備をして私の運転で出掛けた。
草むしりをしながら「父に怒られた」という母がいつもより気持ちを引きずったまましょんぼりしているだけでなく、一度起きたが寝直したというところも本調子ではなさそうだと感じていた私は普段からキツイ自分の口調を抑えたほうがよいなと判断し、運転も丁寧に心掛けつつ、「今朝みたいなお父さんとのやり取りも、今度の日曜日には補聴器の契約するし、着けるようになったらもっと快適に会話できるだろうからね、お父さんも羨ましくて気持ちが変わって自分の補聴器が欲しくなってくれたらいいね」的な事を母に伝えた。

そこでの母からの衝撃的な事実が語られた。

「あんたには何度も話している愚痴の繰り返しだけど、普通の会話ですら喧嘩口調だとお互い要らぬストレスが増えるだけ。それが無くなるようにお願いしたい気持ちのほうが大きいけれどその事で本当に口喧嘩になった事もあったから、お母さんからあんまりしつこく言うのもイヤだし。お父さんには散々一緒に補聴器を買えばお父さんが楽なんだよって言ってきたから、その気になったら何度でも外販の人に来てもらおうねってやんわり言ってみたけど・・・。」



「そう言ったらお父さんが『俺は着けなくていいよ。耳が遠い事をフォローするのが妻の務めだろ』って言ったんだよ・・・。」



これを聞いた私は驚きのあまり言葉が出なかった。
「え~・・・。」って蚊の鳴く声すら出たかどうかわからない。
ここが母を看取っても残っている後悔だ。
いつもの私だったら
「なにそれ!?連れ添って何十年よ!?最後の最後まで妻の務めとかよく言えるね!!
お互い80歳超えて、どんだけお母さんの事を束縛する気なのよ!?
お母さん一日おきの透析も11年目、お父さんは良くなる事はない進行するだけのパーキンソン病、パーキンソン病の看病もお母さんの体調を気にする細かい気遣いもできなくなっていくよね、あのお父さんなら!!
ただ介助するにしてもお母さんは片耳だけ聞こえが良くなっても、介助してもらうお父さんには聞こえるように大声で話すって結構体力も消耗するよ!?
しかも一回で聞こえてくれない、まだ障害者認定も受けられない段階の今ですら同じ事を大きい声で三回も四回も言わなくちゃいけないのはお母さんだけじゃなく、家族みんなが大変な思いしていても優しく見守ろうってしているのにさあ!?
お母さんがお父さんより先に死ねないって言ってるのだって、
表向きはお父さんを残して先に逝くのは寂しいだろうと思わせる発言なだけよね!?
その言葉の裏の本当のお母さんの願いは私は分かってるからね!!
1日でもいいからお父さんの顔色を気にせず、お父さんからの無言の束縛から解放されたい気持ち、よくわかったよ!!」

・・・・・・。

これくらい母以上に怒っていたのに・・・。
その日に限って母がしょんぼりしているから、
私の言葉はいつもストレートで私との会話の後は母が疲れてしまうんだと裏で言っている事も知っているから、
私が言葉を失った事実は二人きりの空間で伝わったと信じて、母が補聴器を手に入れて静かに話せる時に話そう。
そう思ってしまった。

多分、体験会から結局母だけが片耳だけを買うと決めたことについては、本人曰く「私だけでも聞こえないストレスから逃れるのは自分のためだ」と、「誰のための人生だって心を鬼にした」と私に決意表明したりしていた1ヶ月程の間、「両耳欲しいけど父に遠慮しちゃうよ」くらいの愚痴だけで、父の言葉でどれだけ怒り、どれだけ自分が悪いんだ(悪くないのに)と自分を責めたり、でもやっぱり楽しみな気持ちは抑えきれなかったり、他にもいろんな気持ちが入り混じっていただろうに・・・。


『俺は補聴器着けなくていいよ。耳が遠い事をフォローするのが妻の務めだろ』



この一言でどれほど母が落胆していたのか。

それを聞かされた私が、その夜に母のSOSで急いで母のベッドまで行った時、かたわらで呑気にグーグー寝ている父を見てどう思ったか。

「じいちゃん!!ばあちゃんの様子がおかしいよ!!救急車呼ぶよ!!」って
どんだけデカい声で起こしたか・・・。



母が入院中も、待ち望んでいた補聴器専門家のお二方が来てくれる日までギリギリまで「毎日面会に行っても、お医者さんや看護師さんの大事なお話が聞こえないようだからお母さんは無理だとして、お父さんが先に買ったほうがいいんじゃないか」としつこく言った理由・・・。

それを言えば安物の『集音器』を着けて面会に行って、「結局大事なところが聞こえなかった」「聞こえないから大きい声ではっきりと話してくださいってお願いしても、逆に見た目補聴器に見えるから、お医者さんにも聞こえているんだろうって思わせてしまうのかもしれない」「もう何日も着けていたら、細い銅線の部分の接触不良だと思う、もう着けてる意味ないや」・・・。

よく言うよ!って言いたい気持ちで私が「補聴器、補聴器」ってうるさいと
「お父さんに向かって補聴器、補聴器ってしつこいんだよ。そこまで聞こえてなさそうでもないのになんでそればかり言うんだよ」って兄に怒りを含みつついなされたわけだし・・・。

そして、今日も父のためにお試しレンタルする補聴器の調整をしてくださってる担当さんに「今回の事で補聴器を着けたほうがいいと学んだので。」とかマジよく言うよ・・・。

もう、その大事な母は、もう、居ないんだよ・・・。

補聴器を着けて生活することもなくね・・・。

私はまだ母が居なくなった寂しさ、悲しさで泣く暇もない。

父は妻に先立たれた可哀想な人として、母の日記をぼやぁ~っと読んだり、母がスマホに残した写真を見て「もう慣れたと思っていても、泣けてきちゃうもんだなあ」って涙こぼしてみたり・・・。

義妹に母の遺品整理についてあれこれアドバイスをもらう度に、これはこっちの受け取り方が悪いのだろうが、どうしても急かされているように感じて無理やりすべて終わらせた実の娘を、悔し涙しか流せない私をどう思っているのやら・・・。

コロナワクチン打った後、一緒に補聴器体験会に行ったのだから、母の手前、父も聴力テストだけはしてもらってあったであろうと思っていたが、それすらしていないと悪びれもせず言われた時の私の気持ち・・・。


義妹から救急車を呼んで待っている時に聞かされて初めて知ったが、
前々から透析のお医者さん、看護師さんから、血圧が100を切る程低い日が3日続くようなら、迷わず『救急車で!』運ばれた病院で治療を受けるように言われていると、その時にまだ自分に意識があるなら、救急車なんて大事だから嫌だけど、強調されて言われるくらいだから本当に迷わずに救急車を呼んでくれと言われていたのだそうだ。
あの朝、父に言いたかった事は、低血圧になって3日目である事だったのであろう。
言い淀んだのは、もしかするとその瞬間だけ脳梗塞があったのかもしれない。
常に「血液をサラサラにする薬」を飲んでいるから、ちょっとした小さな血栓だったなら、飲んだ薬で溶かされたのかもしれない。
もしかすると、実際に低血圧が3日続いてしまって、言われたとおり救急車を呼ぶにしても、いざそうなると気が引けてどうしようと父に言いたかったのかもしれない。

事実、私がSOSの電話ごしに聞いた感じや、救急車を待っているうちにみるみる言葉が喋れず、必死に使い慣れた血圧計で血圧を測ろうとしても手にちからが入らない様子は脳梗塞の症状にしか見えなかったし、救急隊員さんも自分の名前も言えなくなっていたので脳梗塞として母に応急措置をしてくださったほどだ。

脳のMRIはとてもきれいで、医者も他の原因を探る事になり、透析患者によくある心臓肥大とそれを原因として肺に水が溜まっている事が判明し、そういった場合には体に力が入らないという症状になるという事だった。

肺の水が引けば肥大している心臓に血液が逆流している状態も治まるとのことで入院となり、退院日も告げられた翌朝に、医師が確認出来得た一度目の脳梗塞を起こしてしまい、四六時中家族の付き添いが許されて、夜中を私が担当した。

まだ会話が出来たので、「右手は麻痺してるけど、リハビリしていけばいい。早く退院して補聴器買って、たくさんお喋りしようね。」とは言えた。
それだけじゃない。
嫌い嫌いと思っていた母、脳梗塞を起こしてから子供のようで可愛くすら思えて、夜中の付き添いで交わした会話はいくら人に話しても、母と私だけの時間だった。



長くなりました。

あの一言を言った父に、いつか恨み言として言わないように・・・。

(いや、恨み言をぶつけてもいいくらい理不尽な事をされたら言ってもいいかな?)

父の株を下げたくない。これも父に振りかかったパーキンソン病という難病がさせた事と思っていたい。

だが、どこかで吐き出したかった。それに尽きます。




1月23日。

母から衝撃的な父の発言を聞き、夜になって母が入院してからちょうど3ヶ月です。