さて、前回僕はネタが無いネタが無いと言いながらも稚拙な文章を書き連ねていったわけであるが、今回も依然それは変わらず書き連ねているだけである。
ギターのチューニングをほったらかしで練習していたらあまりにも弦を丁寧に扱わなかったせいで1弦がバッチンと切れてしまった。
困るなあ……来月練習なんだけど。
そして弦を買うのはその当日だったりしてね……
それはさておいて皆様、『モスラ』という特撮映画を知っているだろうか。
ゴジラ、ラドン、モスラ。東宝三大怪獣と称される彼ら(彼女ら、かもしれないが)は今も観る人の心を掴む言わずと知れた大名作である。
1961年公開の初代モスラの造形の可愛さたるや分かるだろうか!!
僕は散歩途中にアリさんが塀を歩いているのを見るだけで飛び上がってしまうくらいには虫嫌いなのだがこのモスラは許せてしまう。
だってなんか幼虫の時点でウリウリしてて可愛いし東京タワーに繭張って成虫となり出てきた姿は可憐で妖艶にも見える。しかし巻き起こす突風でニューカーク市の自動車をバッサバッサとぶっ飛ばす姿は恐ろしい。
とにもかくにもそんなモスラが僕は好きだ。
好きなのだがしかし、周りには分かってくれる方がいない。
いつもそうである。
趣味を分かち合える人なんて出会ったことがない。
昔からそうだった。
昔はそれがかっこいいと思っていた。
周りがスターウォーズとかハリーポッターとか観ている頃、僕は「ハリーポッターなんて面白さが分からん」と一笑し、中学生にしてR-15指定の映画を好んで視聴しだし、中でも長期にわたってシリーズ化されてきたジェームズ・ワン、リー・ワネル監督がタッグを組んで作り上げた大傑作『SAW』シリーズが大好きで、周りの同級生らがルーク・スカイウォーカー対ベイダー戦の手首を切り落とすシーンで恐れ慄く横で僕はピーター・アウターブリッジ演じるウィリアムが下半身を強烈な酸で溶かされる映像を観て「俺はこんなのを中学生で観ているんだ…どうだお前らすごいだろう」と本気で、心の底から本気で思っていたのである。とんだクソガキである。
最初はそんな中学生特有のイタ(すぎるにもほどがある)い個人的なノリだったのだが時を増す毎に僕の歪んでいく承認欲求は加速していった。
最初は好みが周りと合わないだけだったのだが自然にそれは「誰も知らないものを知っている一瞬の優越感」に変わっていった。
それはもう色んなものを観た。
ムカデ人間、アウトレイジ、仁義なき戦い、東京物語、グリーンインフェルノなどなど……古いかグロいかホラーかの3択に部類されて僕は映画を観まくった。
別にホラー映画が得意なわけでも好きなわけでもなかった。
ただ周りが観ていないから観てる俺はちょっとすごいんじゃね??という見るからに偏差値低そうな試みであった。
コンジアムなんて観た日には寝れなかった。
漫画も小説も音楽もその時にあらかた漁った。
大友克洋、松本大洋、伊藤潤二、丸尾末広、藤子不二雄A、浦沢直樹、筒井康隆、坂口安吾、江戸川乱歩、夏目漱石、三島由紀夫、星新一、夢野久作、太宰治、梶井基次郎、井伏鱒二、川端康成、ドアーズ、ビートルズ、レッチリ、ツェッペリン、レディヘ、ドクター・フィールグッド、筋少、山下達郎、サザンなどなど……
古かったり、若い世代では流行っていないものを知っていてすごい、という価値観をどこで覚えたかは定かじゃないがこれは物凄い黒歴史である。
しかしアニメは漁らなかった。
既に格上すぎるオタクの皆様が存在していたからである。
エヴァンゲリオンも涼宮ハルヒも銀魂も鬼太郎も若者の観るアニメになっていた、つまり上が明らかにいるので漁る気にもなれなかった。というわけである。
どうでしょう。ダサいですね。
この凝り固まった考えは見事に今の今まで変わらずに脳みそに刻まれてしまっている。
音楽を始めて色んな人と会うようになってから、僕の好みは認められるようになった。主にアイアン・メイデンのTシャツ着て釣りしてる(andymoriのグロリアス軽トラの歌詞に出てくる)みたいなおじさんから「そんな若いのにサザン聴くのか!いいねえ(麦ジュースがぶ飲み)」と言われるくらいだが。
そしてこの趣味で得をしたのは引き出しがすごく増えることである。
創作ネタが尽きない(ブログのネタはすぐに無くなったけれど)。
しかしネットを見てみれば骨のように細い女性がNANAみたいな格好をして
#サブカル好きと繋がりたい#08
などと言い、チヤホヤされているのを散見する。
非常に憤る。
中学風情がなぜサブカル好きと繋がりたいなどと言ってチヤホヤされているんだ。俺なんて趣味嗜好やとあるストレスやトラウマによる胃腸の長期的な乱れをバカにされ虐められ個室トイレで用を足していたらゴミ箱の中身を全部ぶちまけられたのに。
でもきっと彼女たちもそれがカッコイイ、もしくはすごいと思っているのだろう。
でもどうだろう。彼女たちの言うサブカルは、AKIRAや少女椿みたいなもはやヴィレッジヴァンガードで容易く手に入る大判漫画なのだろうか。それはもう、古いだけなのでは無いか?僕が当時追った古いものと同じ扱いなのではないだろうか。というよりもそもそも僕の時代にサブカルなんて言葉は死語みたいなものだった。
僕の大好きなバンド『アーバンギャルド』のボーカルでリーダーの松永天馬さんはこんなことを言っていた。
「これ以上サブカルにこだわろうとすれば、それは懐古趣味になりかねない」と。
どうだろう。これは過去の僕のことなのだ。
古いものを追って追って辿り着いたのは『おじさん趣味』と貶されるものばかりだった。この趣味で友達が出来たことは無かった。
今僕がいるバンドも、音楽の嗜好というよりはやる気のベクトルが一緒だった。メンバー全員好むジャンルは全くもってバラバラである。
しかしこんな自分を受け入れて一緒に音楽をやってくれる面々である。
とどのつまり受け入れることが大事なのだろう。
それ即ち余裕のある(音楽や映画など様々なことに詳しい)大人、余裕のある(中略)男。
だから最近はそんな中学生風情がTikTokに載っける陳腐なハッシュタグを見ても、
「これがカッコイイもんなあ、今は」
という寛容な心でハートを押し、スクロールする。
これが大人になっていく、ということだろう。
あと数年経てばこの考え方をネットに放り投げたのも黒歴史みたいに感じるのだろうか。
それでも僕はそんな投稿にハートを押してスクロールすることを『寛容である』と思っている。
そして気づけばそんな投稿ばかり流れてくる。
アルバム20個選んでみました、みたいな。
ゆらゆら帝国のラストアルバム『空洞です』、くるりの『TEAM ROCK』、このアルバム達はもちろん大好きで今でも何回も聴いてしまうし賛成なのだけどベスト20を選ぶ時に、ここら辺の定番を入れている人々は個人的に虫が好かないし腸が煮えくり返ってもうヤカンもビックリのグラグラ具合になること間違いないが
「いちばん有名だし人気だからいい曲いっぱいだよね〜」
という寛容な心でハートは押さずにスクロールする。
しかし侮るな、寛容な心は持っている。
どれくらい寛容かというと
「そんなテイストが好きならこんなのも聴いてほしいねえ、例えば電気グルーヴとかサカナクションとかさ、新宝島以外も聴こうな、Shangri-la以外も聴こうな、シーラカンスと僕とか富士山とかCATVとか聴こうな」
みたいな。でもコメントはしない。蚊帳の外の人間が急に飛び出て押し付けてしまってはその人の音楽観を壊しかねない。
音楽は断定してはいけないものなのだ。
でも定番ばっかり選んで安牌なアルバムの知名度でハートを稼ごうとする(ように見える)奴らは死ぬほどムカつくので
ハートは押さずにスクロールする。
よいか?これからサブカルと言われていたものに片足を突っ込む者たちよ、大人になるとはこういうことである。
そしていつの日か、そんな定番を選ぶ邦ロックかぶれの高校生たちを認めれるくらいに大人になりたい今日この頃である。