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ナターシャ(男)のサイト

~ギリギリのところでジョークをかわす男の切なさ~
自分の興味ある事で役に立つ情報を配信していけたらと思います。

これは私の経験談です。


かつて私は県内屈指の暗算能力の上級者で、何度となく上位入賞しました。


当然のことながら、学校での計算は暗算で行ないました。小学生の頃の定期テストはいつも楽しみだった記憶があります。夏休みの宿題は一日で終わらせた記憶が、、、


そして高校生になり、大学受験勉強でセンター試験模試の採点を自分でしたのですが、このときも私は暗算で計算していました。


すると先生が来て一言、

暗算は計算を間違えるから電卓で計算しなさい

と。


確かに普通の電卓で整数の足し算をして電卓が間違った答えを出すはずはない。


この辺り(高校三年生)の年齢になると、直感とか、暗算とか、記憶力よりも、確実に物事を実行することが求められるのでしょうか?


間違える可能性や失敗する可能性を考え、ネガティブな方に重きをおく。

いかにも無難な発想だ。


当時、そう感じたのをぼんやりと思い出した。そして今も私はその考えには否定的だ。


もう一つ


中学生の部活動で私は有能なバレーボールのプレイヤーとして一年から試合に出ていた。2年生になって部活の監督が変わったのだが、とある日の大会間近の練習で、私はレシーブをうまくセッターに返せなくなった。


そしたらその監督が怒ってボールを私に向かって投げてきたのだ。本当に恐ろしかった記憶しかない。今であれば反撃することを考えるが、当時は立場が弱かったし、実際メンタルが弱かった。


そのボールを投げつけられた経験をして以降、レシーブ恐怖症になったのを覚えている。サーブのレシーブをミスすると監督に怒られるという思いで部活をするという、なんとも苦しい部活動だった。


今になって振り返るとあんなに苦しんでいたのがばかばかしいと思うわけで、子供というのは立場が弱いなぁと思うし、反抗しようとも思えないし、極端なことを言えば、自殺という選択肢を選ぶことは不思議ではないと思います。


学校生活で学んだことは、大人になって振り返って考えると、尊敬できる先生はいなかったということ。「先生」は、先に生まれた人という意味以上の存在ではなかった。社会人になって一般企業に入ると、尊敬できる人が現れる。


何のために学校に行くのか?

自分で独学ではできないのか?

先生は必要なのか?存在意義は?

考えた方がいいと思います。


学校という組織は井の中の蛙なり。

いじめ隠蔽問題も全国であるしね。


子供を信じてあげられない大人たち、大人にもいろいろな人がいる。いろいろな良さを持っているだろうし、逆に自分で自分をコントロールできないような問題ある教師もいるかもしれない。


このようないろいろな性格や考え方の大人がいる中で、どうやったら「いい」大人に出会えて、どうやったら「悪い」大人を避けられるのか?


広い意味で「いいチーム」に入ること。

そうすればいい大人に出会えるだろう。


あなたが考えている以上に素晴らしい大人は日本に存在します。




PCR検査で陽性だったかもしれないけど、大した症状ではなかったら問題ではないと思うのですが、日本ではなぜか大事のような扱いになるのは、あきらかにマスメディアの報道による印象の植え付けが原因だ。厚労省もそのように言っている。



話を聞いた限りでは、普通の風邪でもPCR検査で陽性になるらしい。実際はどうかは分からない。

私は新型コロナに感染したことがないので確認できないが発熱や症状などがないのであれば、イベント中止などの極端な対応はしなくてもいいように思います。
(観客はおそらくマスク着用をお願いされるでしょうし)

PCR陽性でコンサート中止って毎回やってたら、お客さんしんどいですよ。運営者は返金すれば問題ないと思ってるかもしれないけど。

何とか次の転職先が決まり、また同時期ではないが転居先も決まった。


4630万円まではいかないが、人生最大の買い物をする決断をしたので、この先の人生がどうなるか楽しみなところがある。


今度は思い描いたとおりにいくか?


ずっと叶えたかった夢を今こそ実現するときだ!

大学に入ると、いろいろな授業を自分で選択するわけですが、数学や物理、化学のレベルは格段に上がります。


例えば数学だと序盤でテイラー展開だったり、物理ではラグランジュアンやハミルトニアンという概念が導入されます。化学だと序盤でシュレディンガー方程式が登場したのを、私は今でも覚えています。当時はどれもなんじゃこれ?という感じで、図書館で調べたものです。


物理の専門書、最初に履修すると思われる力学の専門書は、おそらく一般解という方程式の解の登場で戸惑うと思います。そういう箇所で立ち止まり、その本の表現ではよくわからないから、別の本を読んでみて、自分がしっくりくる表現はどの本に買いてあるんだ?などと思いながら、多くの学生は勉強するのだと思います。


そんなこんなで力学について専門書を読み進めるわけですが、物理を学ぶ者としては、物理が凝縮された数式が非常に大事になってきます。数式は言葉を凝縮したものであり、それ以上の本質的な意義もありますが、数式を単なる文字としかとらえられないようでは、大学で物理を学ぶ意味がありません。


ある先生は言いました。

教科書に載っている数式は、読むだけではなく一度は手でちゃんと書かないとだめだと。また、物理は覚えるものではないからちゃんと式を導出できないとだめだと。


専門書を読んでもよくわからない、という人には、教科書に載っている数式を一度は書いてみることをおすすめしたい。私は凡人なので何度も数式を書きながら書いてある事を理解できるようになりました。


物理は、ある程度の学習の順番があって、最初に古典力学や電磁気学をやって、熱力学や流体力学、統計力学や量子力学、相対論や素粒子物理学というようなステップがあります。それは例えるなら、一つの家を作るようなもので、基礎を作り、柱を立て、屋根を作り、というような順番でないと家は作れないのと似ています。


このようなステップがあるということは、最初にこの全体像をなんとなく頭の中に描ければ、その後の物理の専門書の読み方も違ってくると思います。統計力学は、電磁気的な力が登場しますし、原子や分子の運動を古典力学的に考えたり、量子力学的に考えることもあります。古典力学はどの範囲まで適用できるのか?量子力学はどの範囲まで適用できるのか?など各学問の適用範囲や枠組みを意識できれば、また物理の見方が変わってきます。


物理の専門書の読み方は、基本的にはなぜ?を追求することです。例えば、ある物理現象に対して計算ができるモデルを作りその現象が説明できるか考えることです。大学の理論物理では、その考えたモデルでは何がどこまで一般的に厳密に言えるのか(一般解)を追究します。


また読む上で大事なことは、どのようなモデルを考えているのかという点。質点なのか剛体なのか、摩擦があるのかないのか、どのような外力がかかっているのか、など。最初の設定が大事なのは、話をする上で相手が理解するのにとても大事な要素となります。