「安全第一」は、優先順位を表す言葉であると、前回述べました。この優先順位を間違えてしまうとどのようなことが起こるのか、その1つの例をご紹介します。


私たちの会社では、「列車見張業務」というお仕事を行っています。鉄道の設備の保守メンテナンスは、列車が走る間隙を縫って行われるのですが、私たち列車見張員の役割は現場で働く人たちに列車の接近を知らせて逃げてもらうことと、いざという時に列車を停止させて旅客公衆や現場で働く人たちの命を守ることです。


私たちは2003年にこの業務を始めました。その頃、私たちは鉄道関係者の方から次のように聞かされていました。「日本の鉄道は世界で最も時間に正確である!」なるほど、それは素晴らしいことだと思っていましたが、困ったこともありました。先述の通り、私たちには異常時に列車を停止させる責務があるのですが、その責務を果たすと叱責されたのです。それは、列車がダイヤ通り運行できなくなるという理由からでした。「列車を止めずに安全を確保するのが列車見張員の役目だ!」と、今思えば理解し難いことを当時言われたのを覚えています。


2005425日、その事故は起こりました。制限速度を大幅に超える速度で急カーブに進入した列車が脱線し、線路側のマンションに激突、運転士を含む107名の方の尊い命を奪った福知山線列車事故です。安全設備の不備や過密ダイヤなど、様々な事故原因が挙げられていますが、直接的な原因は、この列車が曲率半径302mの急カーブに70km/hの制限速度を大幅に超えた116km/hで進入してしまったことです。


何故、乗務員は常識では考えられないこのような運転をしてしまったのでしょうか。実は事故現場に列車がさしかかる直前の停車駅でこの列車は72mのオーバーラン(停止位置を通り過ぎて列車が止まる)をして、列車の運行に120秒の遅れが発生していました。この当時のJR西日本において、このような原因で列車運行に乱れを生じさせることは、「定時運行」を誇りとする企業文化の下、到底許されることではありませんでした。そして、「定時運行」を妨げるような行いをする乗務員は、精神を叩き直すため「日勤教育」という、肉体的にも精神的にも多大な負荷のかかる懲罰的プログラムを受けねばならず、過去に数回このプログラムを受けさせられたことのある当該列車の乗務員は、再びその苦痛を味あわされることを避けたい一心で、文字通り常軌を逸したこの行動を取ったとされています。


旅客輸送を行う会社にとって、「定時運行」は「品質」であると言えます。この悲惨な事故が起きるまで、JR西日本は「品質第一」の企業だったのではないでしょうか。そして、その企業体質がこの事故の背後要因の一つとして挙げられているのです。


この福知山線列車事故の後、私たちが働く鉄道工事現場に大きな変化がありました。以前は異常時に列車を停止させると非難されていましたが、事故以降は列車を停止させると表彰されて副賞までいただけるようになりました。同じ行為が非難の対象から称賛の対象に変わったのです。


私たち列車見張員は巨大なJRの組織から見ると、ヒエラルキーの端の端です。しかし、そんな私たちの行動ですら変容するほど、JR西日本は事故の反省を踏まえ、「安全第一」に大きく舵を切り、新しい企業文化の創造に着手したのです。


この事例の様に、優先順位の決定とその価値観の浸透は、全組織的に同時に行なう必要があります。「安全第一」という言葉は、単に「気をつけて作業してくれよ!」と作業者に注意喚起するだけのものではないのだと知ると、この言葉をもっと大切にしなければと感じます。