私には天に帰った子どもが2人います。


一人目は染色体検査をしていないため、性別は分かりません。

染色体検査すれば良かったかなと思うことが何度もありましたが、言わずもなが、染色体異常での初期流産であることはほぼ間違いなさそうなので、しなくても良かったんだと今は思うようになりました。


心拍停止から手術まで2週間経ってしまったので、形あるものがヘドロのように原型がなくなる経過を見届けるという貴重な体験もしました。


あの暑い夏の日、澄み切った青空の下ぼんやりとバスを待っていたなぁ。。。







二人目は男の子だったと確定しています。


高校時代から仲が良かった友達に流産の報告をしたら、「私、実は妊娠したの。だから結婚することにした。今度結婚式やるから参列してほしいの」って返しが来て、打ちひしがれるというよりも、私のなかで友情という名の棒がポッキリと折れた音がしました。

今でも付き合いはあるけれど、私のなかでその棒は折れたままです。本音を言うことも、子どもの話をすることもないだろうなー。





二人の子どもの水子供養はしていません。

当時不妊治療中だったので、水子供養をすると全てが終わってしまうような錯覚に陥ってしまいそうだったので、不妊治療に区切りがついたらやろうと思っていました。





無事に3人目であるペーチャンを妊娠します。

が、昔からフォローされている方々はご存知だと思いますが、切迫流早産で緊急入院・絶対安静に近い状態で出産まで行くことになります。

あの入院生活は人生で一番辛かったし、出産のトラブルもあり、本当に後悔しかなく。。。

主治医であるチャラ男先生が語ってくれた

(出産前)「今日まで本当にあなたは頑張ってくれた。誰にでもできることではない、だから「早産になってしまった」のではなく、あなたは子どもの命を、子どもの成長をここまで引き伸ばすことができたんだ。これだけは自信を持って欲しい」

(トラブった出産後)「あなたのせいじゃない。こういう時のために俺たちはここにいるんだから、これで良かったんだ。本当にこれで良かったんだよ。(私が望んだ選択で良かったんだよという意味)」

一生忘れることはないです。

この言葉にどれだけ救われたことか・・・


たまに「私も同じで・・・」と言われることが何度かあったけど、話を聞くと「あぁ・・・(自粛)」と思うことが多く、当時まったく傷が癒えてない状態で、私より程度が軽い人に同情できるほど心のゆとりは全くなかったので、むしろ辛く悲しく思っていた記憶がある。

あぁ・・・この人は私のこと自分と同程度の状況下だったと認識してるのかなぁって。

二人目を諦めなきゃいけない状況下で、子ども二人欲しくて一人目を授かる前から二人目を視野に入れて不妊治療を頑張ってきた自分を否定してしまう状況を受け入れなきゃいけない。8個残した受精卵を全て破棄しないといけない。その苦しみもあって、あの頃は許容できなかったな〜。

産後の体調が戻ったのは1年経過してから。

元の体力に戻るには入院生活の3倍はかかると言われてたけど、一年経ってやっと日常生活は大丈夫かなぁという状態で、スポーツするとかは全然無理な感じだったなぁ。

3ヶ月の安静は体力・気力・心の余裕すべてを奪うものでした。

チャラ男先生が切迫早産の患者の長期間の絶対安静には反対の立場で、よく「出産後の育児のことを考えて」と仰っていた意味がよく分かります。

チャラ男先生が最初から主治医だったら、私の入院生活も違うものになっていたのかもなぁと思ったりしています。





二人の子どもの水子供養をどうするか決める余裕もなく長い月日は流れ、ある時ふと思い立ちました。


二人の子どもは今も私の心のなかで生き続けてる。

手術した日を勝手に命日と決めていて、命日が何日だったかも思い出せなくなったんだけど、決して忘れたわけではなく、何月何日と固執することから離れ、時折ふと子どものことを思い出す。それで良いんじゃないかって。

しまってある母子手帳はこの先も開くことはないけれど、それでいい。

私の心のなかに生きていればいい。




だから、水子供養はしない。





いつの日か書こうと思っていた水子供養の話・・・