a×n。

現実世界とは一切何の関係もありません。理解できない方は閲覧禁止

 

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同期のあいばくんとは、入社の日に出会った。十数人が集まる会議室の斜め前にいた彼は、背筋をピンと伸ばして真剣な顔をして、社長の話を聞いていた。その手に握られていたボールペンが、俺の手の中にある物と同じで、それで彼のことを覚えていた。
全てが初めての一日が終わって、脱力しながら乗ったエレベーターで、たまたまあいばくんと一緒になった。
「あ」
思わずこぼした声に、彼が顔を上げて、同じように「あ」とこぼした。会釈を交わして隣に立つ。しばし無言が続いて、エレベーターは一階に着いた。なんとなくそのまま隣同士でエントランスを進んで、外に出るくらいで彼に尋ねた。
「どの路線ですか?」

同じ路線で数駅違いの場所に住んでいた俺たちは、その日帰り道を共にして、すっかり仲良くなった。ほぼ毎日一緒に帰るし、休みの日もわりと会う。休みの日はどちらかの家でだらだらすることが多い。俺はいつでもどこでもゲームをしていて、あいばくんはテレビを見たり読書をしたり筋トレをしたり掃除をしたり洗い物をしたり散歩に行ったりと、何かと自由にいろいろしていた。
お互い気を使うこともなく同じ場所で同じ時間を過ごす中で、知らないことはほとんどないような気がしていた。

その日は珍しく二人で出掛けていた。よく行く飲み屋のマスターの誕生日プレゼントを買おうと繁華街をぶらぶら歩く。
「何がいいかなあ」
「マスター釣り好きだから、その関連の物とか?」
「釣り関連の物ってどんなの?」
そんなことを言いながら歩いていたら、あいばくんのスマホが鳴った。
「母ちゃんだ」
画面を見たあいばくんが言う。ひらひらと手を振ってやると、片手を上げて静かそうな路地に進んでいく。俺も道端に寄ってスマホを眺めていた。

すると、ドンと何かがぶつかってきた。
「わ」
「いってぇな!!」
よろけた俺の頭の上から怒声が降ってくる。見上げた先にはガラの悪そうな男がいた。最悪だ。
「えっと、すいません」
「こんなとこに突っ立ってんじゃねえよ!」
まだ浅い時間なのにもう酔っているらしい。ますます最悪だ。思わず顔をしかめてしまったら、バレてまたしてもどやされる。
「なんだぁその顔。そっちが突っ立ってたからぶつかったのに、こっちが悪いってか?」
そんなことは一言も言っていないが、実際そっちが悪いので、思わず頷いてしまう。あ、と思ったが遅かった。

「なめてんのか!」
「痛っ!」
腕を乱暴に引っ張られて、小さく叫ぶ。殴られる!と思った瞬間、ふっと視界が陰った。
「うぉ、なんだてめぇ」
瞑ってしまっていた目を開けると、あいばくんが立っていた。俺の腕をつかんでいる相手の腕をつかんでいる。傍目に見ているだけで分かるほどギリギリとものすごい力でつかまれて、そいつはたまらず俺から手を離した。それでもあいばくんは手を離さない。

あたたたた、と叫ぶ相手に、あいばくんが問いかける。
「こいつになんか用?」
そいつは果敢にもまた同じ主張を繰り返した。
「そ、いつが突っ立ってるから、俺がぶつかったんだよ!」
「は?」
より一段と力を強めたのか、相手は痛みから逃れようと体をくねらせる。
あいばくんはもう一度言った。
「こいつに、なんか用?」
「……何も、ねえ、よ!!」
あいばくんがパッと手を離すと、そいつは数歩下がってこっちを睨んだ。その時にはもうあいばくんは後ろを向いていて、つまり俺と向き合っていた。気が削がれたように男は去っていったが、あいばくんは俺から目を逸らさない。

すっと右手が伸びてきて、俺の左頬を撫でた。
「大丈夫?」
「……」
街灯を背負って立つ彼の視線に絡めとられて、うまく声が出せない。興奮しているのか、触れる指先の温度がいつもより高く感じる。そう思って気づく。
(俺、この人の体温を覚えているんだ)
「あ……」
触れられているところがカッと熱くなる。熱は瞬く間に全身に広がって、俺の体も、心も震えさせた。
何も言わない俺に、あいばくんは訝しげに首を傾げた。
「……にの?ほんとに大丈夫?」
「あいばくん、」
「ん?」
「あいばくん……」
「うん」
「……」
「帰ろっか」
それ以上何も言えない俺に、あいばくんはふわっと笑って、そう言った。

休みの日の夜の電車は意外と混んでいる。並んで立った二人が窓ガラスに映る。あいばくんは俺より頭半分高くて、見上げた先には吊り革を握る手が見える。
「あいばくん、力強いんだね」
「え?今?」
驚いた声を出して、彼がこちらを向く。
「だって…」
知らなかったから、と続けようとして、思ったよりも拗ねた声に口を噤んだ。
「俺、バカ力なんだよねえ」
昔ゲーセンの腕相撲の機械と腕相撲して、機械ごと動かしたことあるよ、なんておもしろエピソードを披露しはじめて、思わず笑ってしまう。
「あ、笑った」
「え?」
「ずっと暗い顔してたから、心配だったの」
そう言ってあいばくんの方こそ優しい顔で笑うから、恥ずかしくなって照れ隠しに悪態をつく。
「いや、バカ力すぎるだろって」
「なにぃ!」
肩をドンッとぶつけてくるから、大げさに痛がってやる。やっと普段通りの雰囲気になったと思ったのに、あいばくんは空気を読まない。
「でも俺、バカ力で良かった」
「え?」
「だってにのを守れたからね」
引いたはずの熱を思い出す。触れた指先、触れられた頬、庇われた腕。

「にのさあ、何かあったら俺を呼んでね」
「え?」
俺さっきからえ?しか言ってないな。
「俺ににののこと守らせてね」
「なにそれ……」
守るって、なにそれ。
「なんで……」
「なんででも。俺がにのを守るから」
思いのほか真剣な声色に顔を上げる。声と同じくらい真剣な顔をしたあいばくんがこっちを見ていた。

瞬間、電車が揺れて、あいばくんも揺れて、手すりにぶつかった。
「あいて!」
体勢を立て直した拍子に反対側の人にぶつかって、あわててペコペコ頭を下げている。
「……ハハッ」
落ち着きなくて、バカ力で、優しくて、強い人。

「守るんなら、一生守れよ」
俺の返答に、あいばくんはちょっと目を見開いて、破顔した。
「もちろん!」

触れた指先は、どちらの熱か分からないほど、熱かった。