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現実世界とは一切何の関係もありません。理解できない方は閲覧禁止。

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あっという間に季節は巡って、夏の足音が聞こえ始めた。もう雨の季節だ。彼には、雨予報なのに朝雨が降ってなければもう雨は降らないと思い込んで傘を持って出ない悪い癖があるらしい。よく分かる。俺もそうだから。そんな俺はいいとして、あの春の日みたいに彼が濡れてしまうのはかわいそうだから、置き傘をしている。だから雨が降ると、彼は決まって顔を出して、「傘貸して?」と照れたように頼んでくる。俺は「仕方ないですね」なんていいながら、黒い折りたたみ傘を手渡す。そうしてまた、彼が傘を返しに来てくれるのを待っている。

しかし今年は空梅雨らしい。最初の一週間はわりと降ったが、今週は全然だ。レジ打ちの合間に自動ドアの向こうを眺めてはため息をつく俺を見て、バイト仲間は誰を待っているのかとにやにや笑った。
そんなんじゃない、と言おうとして結局言えなかった。ああ、俺は、彼を待っているんだと、その時気付いたから。

「お疲れ様でしたー」
「あ、にのみやくん、ちょっと待って」
帰ろうとすると店長から声を掛けられ、はい、と何かを手渡された。
「なんですか?」
「余り物で悪いけど」

ビニール袋をなるべく揺らさないように歩く。スニーカーの底がアスファルトに擦れて乾いた音がする。空を見上げても雨雲は見当たらない。
「今日は、降ってほしかったのになあ」
ぽつんと呟いた声は思ったよりも湿っぽくて、思わず笑ってしまった。重症だ。

「なんか楽しいことあったの?」
目線を落とした俺の背中で、急に声がした。
「わっ」
思わずびくっと肩を揺らしてしまって、ついでに手に持った袋も揺らしてしまって、慌てて持ち直す。
「ごめんごめん、驚かせちゃった」
振り返った先にいたのは、今日会いたかった人だった。
「あいばさん……」

二人並んで歩く。隣から伝わる熱に落ち着かない。彼は体温が高いらしい。汗かきすぎじゃないですか?と尋ねた俺にそう言って笑っていた。
「ね、それで?」
「え?」
「なんか楽しいことあったの?」
彼はもう一度同じ質問をした。楽しいこと……
「そうですね、ありましたよ」
あなたと歩いている、今この瞬間が楽しいです、と心の中でそっと呟く。
「そっか、それは良かった!笑顔が一番だもんね」
そんなあなたの笑顔が一番です、とやっぱり心の中で呟いた。

「そういや、そっちに持ってるの、大丈夫だった?」
あいばさんの問い掛けに、袋を両手で持ち直して中身を確認する。ちょっと横に寄っているけれどまあ大丈夫だろう。袋を覗き込む俺の横から彼も覗き込んでくる。前髪がサラサラと目の前で揺れる。
「ケーキ?」
袋の中身は一切れのケーキ。
「店長がくれたんですよ。賞味期限切れのやつですけど」
「そうなんだ」
……いいかな、言ってしまって。言うなら今しかないよな。
「俺、今日、誕生日なんです」
「え!?」
あいばさんの大きな瞳がさらに大きくなる。
「え、それは、えっと、おめでとう!!」
手をバタバタとさまよわせながら、お祝いの言葉をくれた。
「ありがとうございます。そんなに慌てなくても」
「いや、だって」
さまよわせていた手でポケットやらなんやらを漁ったと思ったら、リュックの中からガムのボトルを取り出した。
「こんなのしかないや……」
「え、いや、そんなつもりじゃなかったので、いいですよ」
今度は俺が慌ててしまう。けれどあいばさんは、俺の手を取って、そっとボトルを握らせた。
「ううん、もらってほしい。で、俺の誕生日にお返しをちょうだい」
「え、」
あいばさんの大きな黒目が俺を見つめる。握られたままの手がいやに熱い。

「俺の誕生日ね、12月24日なの」
「今年のクリスマスイブ、にのみやくんを予約させて」
「ゆってる意味、わかる?」

黒目の奥がゆらゆら揺れている。不安そうな、けれど決意を固めた、そんな顔。ゆってる意味って、俺が思っている意味で合っているんだろうか。自惚れだろうか。

「……わかる、かも」
「言ってる意味、多分、分かる」
「でも、合ってるか分かんないから、ちゃんと、教えてほしい」

手も熱いけれど顔も熱い。多分真っ赤になっているだろう。恥ずかしくて目を伏せたら、それに合わせるように彼は腰をかがめて、揺れる黒目が俺を捕らえた。

「好きだよ」
「俺とつきあって」

黙ったまま何も言わない俺に、彼の黒目がふいと逸らされる。
「……急にごめんね」
手が離されて、急速に熱が冷めていく。気温まで下がったような気がして、彼の手をぎゅっと掴み直した。その拍子にガムのボトルが落ちてバラバラと散らばる。けれど気を配る余裕はない。

「……おれ、」
「おれ、も、好き、」

です。まで言い切らない内に、掴んでいた手を掴まれて引っ張られ、あっという間に俺の体は彼の腕の中にいた。熱を全身で感じて、熱が上がる。

「よかったー……」
はあーっと大きなため息が俺の首筋をくすぐる。身をよじると熱が離れていきそうになったから、俺からぎゅっと抱きついた。
「……誕生日プレゼントもらっちゃった」
そんな俺の呟きに、くふふと彼が笑う。
「俺こそ、誕生日でもないのにプレゼントもらっちゃったよ」
「ちゃんと誕生日プレゼントもあげますよ」
浮かれた会話をしている自覚があるが、ふわふわ浮いた気持ちは浮きっぱなしで降りてこない。
「……あー、幸せ」
どちらともともなく呟いた時、ぽつ、と足元で音がした。え、と空を見上げると、いつの間にか一面の灰色の雲に覆われていて、瞬く間に雨が降ってきた。
「うわ!!」
二人して走り出す。その手は固く結ばれたまま。

「俺、雨好きだな!」
走りながらあいばさんが笑う。
「にのみやくんに会えるから!」
キュッと手を握り直して、俺も笑う。
「俺も好きだよ!」
「あいばさんに会えるから!」



雨の日が好きだ。
でもこれからは、どんな天気の日もきっと好きになる。
あなたがそばにいてくれるなら。