ふと、かっこいい男性のことを思い出しました。
あれはかれこれ5、6年くらい前のこと?
私は病院で、治験コーディネーターという仕事をしていました。
治験が円滑に開始でき、実施し終わるまで、被験者さん、医師、治験依頼者などとさまざま連携をとって業務をするのが、治験コーディネーターです。
※治験=まだ承認されていない薬や医療機器について、国(厚生労働省)の承認を得るために行う臨床試験のことです。
コーディネーターは、いろんな治験を担当し、ひとつの治験のたびに、準備から、いろーんな業務があるんですけど。
ひとつ。
とても印象深い治験がありました。
私が担当していたのは、とある「企業治験」。製薬会社が医師に依頼してくるものです。
イケイケゴーゴーな医師(ボス)がいて。
オラオラ系だから。
治験もオラオラ系で進めたがる。
だいたい全国で行なわれる治験だけど、最近は国際共同治験が多くて、海外発信です。
(計画書や手順書が英語なの)
それを、CROと呼ばれる、製薬会社から治験を受託している企業が、私たちコーディネーター等と関わり進めていくのが通常です。
英語オリジナルの計画書は和訳してくれます。
準備がとても大変で、土台がふにゃふにゃだと、実施し始めると足元から崩れてゴタゴタになる。
準備を念入りにしたい私に反して、オラオラ先生は、とにかくスピーディーに進めたがりました。
私は、CROの担当者さん(モニターさんといいます)と、切磋琢磨しながら進めていきました。
その時のモニターさんが、かっこよくてね
何がって、外見もスラリとしていたんだけど、仕事の姿勢がね
どれだけ助けられたかわかりません。
オラオラ先生の支援をすべく、大きなプレッシャーの中で進めていった治験。
オラオラだからね、全国で一番か二番かを争う速さで、被験者さんを組み入れてしまったの。
その時のプレッシャーったら、、、
はじめての被験者さん、何のトラブルが起こるかわからない、というのはコーディネーター間では「うんうん」とうなずく話。
他の実施機関ですでに進められていたら、細かい情報が入手できてありがたいのですけど。
説明が難しいのだけど、治験は計画書どおりに進めていくのですが、通常の医療とは手順も違っていて、きっちりと細かなところまで決められています。「試験」だから。
すべて規定のデータが揃ってないと次に進めない、とかのルールもあるんです。
まだ承認されていない「薬になるもの」を人に投与するのですから、ある意味厳しい条件は当然なのですけど。
何せ、いちいちドキドキするんですね。
不備はないかと確認する作業も気が抜けません。
オラオラ先生は、どんどこと次々被験者さんを組み入れました。
あろうことかこの治験、ひとり被験者さんを組み入れるたびに、予想もしないトラブルが発生していました。
被験者である患者さんに被害を及ばないようにすることが最優先。
そこは死守せねばなりません。
オラオラ先生の機嫌も損ねてはなりません。
私はオラオラ先生に、何かあるたびに呼び出されたり、メールを送るとすぐに電話がかかってきたりと、それはそれはビクビクしっぱなしでした😅
イケてるモニターさんは、トラブルのたびにフォローしてくれることはもちろん、治験依頼者の立場として、すぐ謝罪と対処のために飛んできてくれていました。
大元の計画が良くなかったのか、医療機関で実施するには乖離があったのか、ほんとに色々とトラブルがあったんですよね。。(私はよく、大元の製薬企業にケンカ仕掛けてました💦)
ある時、モニターさんが謝罪のためだけに、土気色の顔をして来られたことがありました。東京から。
謝罪したらトンボ返り。
その時、オラオラ先生にではなく、まずコーディネーターの私に会いに来てくれました。
あの時の誠心誠意の行動とお心に、涙が出るほど心動かされました。クタクタの中に光があった感じでした。
私の力だけでは当然どうにもできなかったので、周囲の力にどれだけ救われたか。
けれど、あの時の自分のガッツとパワーは、今思い出しても恐ろしいほどでした。
世間知らずと無知を前面に出し、製薬企業のお偉いさん方に言い返したこともありました。
言った、言わないの話にならないように、証拠となるようにメールにし、長文メールを送りつけたりしてた。
それも、勢いあまって、オラオラ先生を差し置いてメールを飛ばしたこともありました。
(のちに、子分の先生に指摘された…😅)
末端の私が何を言っても、腹黒い人らは痛くも痒くもありません。けれど、末端から発しないとどーにもならん!とのただド直球なやり方で。
(軽く潰されるやつですよね)
まだ、コロナ禍前の話です。
コロナ禍となり、薬が勢いよく承認されていくのを見て、製薬企業め、クソが!
と思っていました。
あの時から嫌いだからです。
(個人的な偏った意見です。悪しからず)
話が脱線しました。スミマセン。
組織の中で、ベストな仕事をしようと必死になっていたあの頃。
残業ばかりして家にはほとんど居られず、その後私はどんどん自分を見失い病んでいくのですが、長女は非行真っ只中でした。。。
オラオラ先生の信頼を得ていき、モニターさんとの結束は何物にも変え難いほど強くなり、「仕事の青春期」というならあの頃が第二のいちばんかもしれません。
(第一は、飲食店自営の頃です)
大好きだったモニターさん、今もお元気かな?
しかし、もうあんな必死になる仕事、私にはできそうにありません。したくないです。病んでしまうから。
けれど、あの時の「ガッツ」は自分の中にちゃんとある。
これから、形を変えて自分を守ってくれるのではないかと思います
これからは、楽しいほうへ。
あの時のガッツも、ちゃっかりとちょっぴり連れていきたいと思います。