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1937年3月、中国事実上の最高実力者、蒋介石軍事委員長は、かの西安反乱事件から帰還した。半月にもわたる軟禁生活から痩せ細り、腰の痛みも癒えない中、それでも参加しないといけない行事がある。それは杭州筧橋航空学校の卒業式だ。

杭州筧橋航空学校は、当時、中国唯一の空軍人材養成所であった。卒業式には、我が子息が中国最高実力者から卒業証書をもらう瞬間を見ようと、多くの卒業生家族が参列した。式の進行に合わせ、卒業生が操る飛行機が学び舎の上を飛び回り、その腕で観客を楽しませた。そんな中、特に目を引くパイロットがあった。空から舞い降り地面ぎりぎりを飛行したかと思えば、再び凄まじい勢いで空に舞い戻った。その場は驚きと喜びの声で満ちた。

このパイロットの卒業生の家族は出席していない。しかし彼女がその場にいた。彼のために応援しに来たのだ。パイロットの名前は閻海文。満州出身で、満州事変後、中国内地に亡命し、筧橋航空学校に入学、三年の訓練を受けた。彼女は江蘇省南通市出身の劉月蘭さん。閻さんは卒業当時22歳の若さで、国の空を防衛するという重大な任務を任せられた。そんな彼に誇りを持つ劉月蘭さんは、まさか5か月後、彼との死別するとは思いもしなかった。

1937年7月、盧溝橋事件勃発。戦火はやがて上海まで飲み込んだ。閻さんは他の航空学校卒業生たちと一緒に戦闘機に乗り、地面部隊を支援するために戦場に向かった。戦争は激しさを極め、卒業生の家族たちは新聞の戦報を読みながら、卒業名簿上の名前に二重線を引き、わが子はいないかと一喜一憂していたそうだ。8月17日、閻さん所属の航空隊は日本海軍陸戦司令部の空襲任務に参加したが、閻さんの飛行機に高射砲が命中した。すぐ落下傘で操縦席から地面に降下した閻さんだが、あいにく日本軍の勢力範囲に降りてきた。日本軍の降伏呼びかけに応じない閻さんは、ピストルをもって戦ったが、最後の一発を自分の頭に向けて発射した。

閻さんが死ぬ前に何が起きたか?戦意高揚のため、いろんな武勇伝があった。「中華民国万歳」を叫んで自決。「中国空軍に生きて捕虜になる奴はいない」と叫んで自決。どれも伝説に過ぎない。唯一言えるのは、死んだ閻さんの帽子に、彼女の肉筆の手紙が入っていたことを、日本軍が確認したことだ。死ぬ前、忘れられなかったのは、彼女の存在であったに違いない。

さすがの日本軍もお墓を作って丁重に彼を埋葬した。「支那勇士之墓」という墓石まで立てて敬意を払った。閻さんの同級生たちは泣きながら彼への追悼文を書き、最後の署名は「未亡の同級生」。お国のため遅れ馳せながら自らの命を捧げたい、という気持ちの表れだ。数十年後、中国共産党革命が起き、元国民党兵士というだけの理由でお墓は破壊された。復旧にはそれから半世紀がかかったが、お墓には何も残っていない。ここ数年、閻さんを記念するための文章も中国のネットで現れたが、皮肉にもそのタイトルは「あまり知られていない中国軍人」だ。

なんといっても、彼女劉月蘭さんのことはどうしても気になる。83年経った今、彼女はもう他界したはず。生前の彼女はどんな人生を歩んできただろうか?他の男と結婚したか?子供も孫もいっぱい出来て幸せだったのか?いずれにせよ、閻さんは国のため、そして彼女のため、空中でも地上でも勇敢に戦った。よくやった。いま安らかに中国の土地で永眠している。ほとんどの中国人は閻さんのことを忘れても、彼女の心のどこかに、あの22歳のままの閻さんはいるはず。