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《三国志演義》の愛読者なら誰もが知る「黄巾の乱」。その他にも、中国の歴史上には様々な乱がある。唐王朝時代の「黄巣の乱」、清王朝時代の「太平天国の乱」等々。但し、これらの歴史事件をこのように呼ぶのは、中国を除いた我々東アジアの国々に留まる。中国発の事件だから、呼び方も中国に由来するはずであるが、大陸中国では「黄巾の乱」のような呼び方自体がなくなってしまったのだ。

1949年以降の中国の歴史教科書を開くと、目を疑うほど、評価が覆された歴史事件の記載を目にする。伝統的な「〇〇の乱」という呼び方は完全に死語と化している。それに取って代わったのは、「〇〇起義」。義によって兵を起こすという意味の言葉だ。反乱を起こす主体は人民だから、悪いのは国家や官僚たち。反乱の過程がいかに暴力的でも、残虐であっても、義であることに変わりはない。

建国前である1947年の、中国の辞書《辞海》を見てみよう。

【黄巾】東漢霊帝の時、鉅鹿の人・張角は妖術を生徒に教え、全国に弟子たちを派遣し伝道した。10年の間で、信者は数十万人に達し、「蒼天は既に死んだ、黃天は立つべき」という呼びかけで乱を起こした。当時の人は彼らを「黄巾賊」と呼び、人を殺したり、地方首府を燃やしたり奪略したりした

この内容は、「三国志」ファンなら皆が熟知している。「三国志」のストーリーはここから始まる。昭和34年の《大漢和辞典》にもほぼ似たような内容が書いてある。東洋人の教養ともいうべきだろう。


 

 


建国後、同じ大陸中国《辞海》の「黄巾」に関する解釈はどう変わったであろうか?

【黄巾起義】東漢末年の農民大起義。宦官たちの圧政により、人民を搾取し、豪族地主もまた土地を横領したりした。沢山の農民たちが破産し、流民化した。太平道首領・張角はひそかに組織活動を行い、10数年の間、信者は数十万人に登り、8州まで広がった。のちに起義し、黄色い巾で頭を包んだので、「黄巾軍」と呼ぶ。政府に反旗を翻して官僚を殺し、地主の城まで攻略した。しかし、実戦経験の足りない起義軍は政府と地主の軍により鎮圧され、失敗に終わった。主力部隊による延べ9か月にわたる勇敢な戦いが終わった後も、各地にいる残存部隊は勇戦し、20年間も続いた。

東漢末年の人たちは黄巾のことを「賊」ではなく「軍」と表現したとしている。この昇進ぶりは驚きに値する。しかし、その根拠は一体どこにあるのであろう? 

マルクス主義者の理論だから、なんでも史的唯物論に結づく。そうでもしないと、反動的で、時代遅れだと批判される。仕方がないかもしれないが、人民の反乱はすべて「起義」と呼び、「〇〇の乱」は本当に消えたのであろうか?

そうでもないであろう。現大陸中国政府からすれば、天安門事件は、立派な「乱」である。よって、定義を少々修正する必要がある。過去の政府を倒すための反乱は「起義」。現政府を倒すなら、れっきとした「乱」だ。