2001年、当時の僕の所属事務所が上場だか何だかをすることになり、音楽のことを理解していない株主だか誰だか有象無象が、会社に出入りするようになる。嫌な予感は的中し、自由であった社風がいきなりシビアな風にさらされて、赤字続きの音楽事業など、続けていられなくなった。

 

高田志麻、白井大輔、山口由木など、実力派の若手も出演するまでになっていた音楽イベントも、結局うやむやのまま終わることになる。よくあることだ、と言えばそれまでかもしれない。しかし、その突然の終焉で多方に多大なるご迷惑をおかけした。非常に悔しかった。一介の雇われディレクターである僕には、なすすべもなかったが。

 

事務所がやばいらしい、とは聞いていた。現実にそれを実感したのは、所属事務所が主催したプロレスイベントが、徹底的に歴史的に圧倒的にコケたことだ。そのイベントは大阪城ホールで行われ、僕のようなプロレスに明るくない人間でも、テレビで頻繁に目にする人気レスラーを多数揃えた。それでも全く客が入らなかった。1万人キャパの大阪城ホールにおそらく50人ほどしか観客がいなかった。それはもう、見るも無残な光景だった。

 

2001年の暮れに所属事務所が倒産した。

 

僕は33にしていきなり、世の中に丸裸で放り出された。I社長とはそれから一度も会っていない。噂でしか消息を聞かない。アマチュア時代からずっと、大変にお世話になった恩人なのに、僕にはお礼をいう機会すらなかった。

 

井上さん、お会いしたいです。本当にお世話になりました。これっぽっちもあなたにネガティヴな感情などありません。

 

2002年から僕はステージ衣装を作業服に着替え、ギターの代わりに炙り棒を持ち、消防設備点検の仕事を始めた。何と言っても無収入になったのだ。

 

バーバンドの仕事をしている時に店で「ロビー」と呼ばれるとてもギターの上手いおじさんとセッションし仲良くなった。ロビーが消防点検の親方だったのだ。彼に相談し雇ってもらった。

 

現場では大阪の気の荒い兄ちゃん姉ちゃんにこき使われた、と言いたいところだが、彼ら、悪いのは口だけで、ぶっきらぼうだが丁寧に仕事を教えてくれた。得体のしれない30過ぎの使えない男がいきなり現場にやってきて、彼らもやりにくかっただろうに。

 

FOUR TRIPSは自然消滅した。解散などしていない。僕たちには解散する資格すらなかった。自分がステージの真ん中に立って歌って生計を立てる、なんて儚い夢はとうの昔に無くしていた。それじゃ食えない。食えないと生活が出来ないのだ。

 

僕は考えた。ない頭で考えた。消防点検の仕事で一生食っていく才能もないと初日から気づいていたから。僕が食って行ける道。才能がなくてもなんとかなる道を考えた。

 

僕が33年の人生で、多少でも形になったことは音楽しかなかった。曲がりなりにも、オリコン43位というポテンヒットを出した。本当に小さく微かな誇りだったが、そこに頼るしかなかった。僕は音楽業界誌を購入し、そこに載っている音楽事務所全てにデモMDを送った。100社以上送った。

 

丁寧に返事をいただいたのは、J社とA社だけだった。どちらも「あなたの作品は当社にはそぐわない」という内容のものだった。返事がもらえただけでもありがたいと僕は本当に思った。

 

 

 

成瀬英樹

http://www.hidekinaruse.com