「フクロウの唄」がリリースされた後も馬場さんは、地道なライブ活動を続けた。そして、素晴らしいアルバムをリリースしたことで、少しずつ業界内に馬場俊英 still aliveの評判が巡るようになっていた。
僕が見て聞いて記憶している話をする。細かな筋は違っているかもしれないが、これが僕から見た真実だ。
ある時、「ボーイズ・オン・ザ・ラン 」がラジオから流れるのを聴いたコブクロの二人が感銘を受け、なんとステージでカバーをしたという。ワンツアー、セットリストに入ったという。当時のコブクロはすでに人気絶頂期に突入していた。
それにつれ、馬場さんのライブの集客は桁違いに増えていった。十数人が数十人になり、数百になる。元から馬場さんはどんな時も素晴らしい歌を歌っていたので、新しい観客の心を掴んで離さなかった。
そして、コブクロはアルバムでも「ボーイズ・オン・ザ・ラン 」をカバーした。ご存知の通り、彼らは素晴らしいソングライターでもある。かなり異例の事だと思う。そのコブクロの音楽に対するフェアネスが僕の胸を打った。そしてこの素晴らしい歌が、より多くの人に聴かれることになる。この必ず誰かに伝えたくなる奇跡の歌が。
僕はこのコブクロバージョンの「ボーイズ・オン・ザ・ラン」が収録されたアルバム「MUSIC MAN SHIP」を当時住んでいた神戸市長田区にあるツタヤで試聴して、店内で泣いてしまった。恥ずかしかったが、俺には泣く資格があるだろう、と自分に言い聞かせた。
2004年の話だ。僕の人生が一番タフでハードなうねりを持っていた時期だった。この話は別の話だが。
そして、馬場さんは、メジャー契約を打ち切られた同じレコード会社「フォーライフ」から再メジャーデビューを果たすことになる。その素晴らしいニュースを発表する梅田バナナホールでの馬場さんの主催イベントで、僕をオープニングアクトとして歌わせてくれた。馬場さんとはそういう人だ。
アンコールで「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を馬場さんと共に僕も歌った。その時の僕の興奮をあなたならわかってもらえると思う。
再メジャーデビューした馬場さんは2007年に「スタートライン」で紅白出場を果たす。教えて欲しい。これを奇跡と呼ばずして、なにを奇跡と呼べばいい?
僕はこの馬場さんのストーリーをいろんな感情を持って眺めていた。心から嬉しいのはもちろんある。しかし、嫉妬だってある。俺だってやってやるさ、と思う夜もあれば、馬場さんは特別なのさ、とうそぶいてしまう弱い自分もいた。
ひとつ、心に刻み込んだこと。本当に、本当に、圧倒的な素晴らしい作品を作りさえすれば、必ずなんとかなる。カウンターの酔客がみな泣いてしまうような。コブクロがカバーせずにいられなくなるような。そんな作品を作れば。
馬場さんの大復活劇は、ファンの皆さんに勇気を与えたかもしれない。しかし、一番その衝撃をうけたのは、僕のような同業者であったに違いない。努力は必ずしも報われないかもしれない。しかし、作品は嘘をつかない。大衆は必ず本物を見抜く。
そして僕は「ボーイズ・オン・ザ・ラン」を、馬場俊英を見抜いた最初の何人かの一人だ。審美眼は間違っていない。僕は僕自身を泣かせることが出来る作品を作れば良いのだ。そう自分を鼓舞し続け、頑張ってきた。「ボーイズ・オン・ザ・ラン」がなければ、「君はメロディー」もないのである。
馬場さんは、今も、馬場さんらしく歌い続けている。僕は彼のことが大好きだが、仲良しこよしのお友達ではない。同業の尊敬すべき先輩だ。次に会うときは、もっともっと、自分を高めてから会いに行きたい。
「まあまあ、成瀬くん、力抜こうよ」と馬場さんは笑うだろうけど。
成瀬英樹