vol 120
加古川でオーダースーツの仕立て、装い提供を通じて
ステキな旦那様=ステ旦を増やしている
フェリーチェ銀座屋のおおやなるひこです
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犬山にある板津忠正氏の生前のままの
書斎で、生前のお父様のお話をして
下さったご子息の板津昌利様
この日、本当に沢山のお時間を
割いて頂き、とても丁寧に
生前のお父様のお話をして頂きました
沢山お話がある中で、
以下、2015年4月に行われた
板津忠正様の葬儀において、喪主である
息子の昌利様が参列者に向けた
メッセージがあります
これを読めば、板津忠正氏の
偉大なる功績、人柄が分かり、
深い感銘を受けます
少し長いですが、以下にその
全文を記します。是非最後まで
お読みただけたらと思います
✳︎昌利様からは掲載の許可を頂いております
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エピソード
昭和62年9月、鹿児島出張での仕事を終えた翌日、 私は鹿児島駅前からタクシーに乗車し、当時父が勤務していた『知覧特攻平和会館(遺品館)』へと向かいました。遺品館までは約1時間の道のり。10分ほど走ったとき、車窓から景色を眺めていた私に運転手さんが 話し掛けました。
運「お客さんはどちらからお見えになったんですか。」
私『名古屋市近郊の長久手町というところから来ました。』
運「それは遠くから大変でしたね。そういえば、遺品館の館長さんも愛知県出身ですよ。」
私『そうらしいですね。』
私は、初めて出会ったタクシー運転手との他愛もない会話と思ったので、そのときは館長の息子であることは特に名乗りませんでした。
運「この辺でタクシー運転手をしている連中はみんな館長さんに感謝してますよ。」
私『えっ、どうしてですか。』
運「昔の遺品館は間口が小さく、展示スペースも狭くて、県外からくる人は遺族を除けばそれほど来ないような状況でした。館長さんは特攻隊の生き残りで、実際に出撃したんだけど、エンジントラブルで徳之島へ不時着して助かったそうなんですよ。戦後、日本が復興しはじめたころから、たった一人で特攻隊員の遺族を訪ね歩いて、気の遠くなるような努力をされて、遺書や遺影といった資料を集め、それを遺品館に送り続けてきたそうです。そのおかげで今年あんなに立派な遺品館ができたんですよ。」
私『たった一人で全国行脚して、陸軍特攻隊の遺族の 方々を訪問されていることは私もよく知っています。』
運「実はね、私は何年か前に運転手を辞めようと思ったんですよ。でもね、2年くらい前に館長さんが愛知県から単身赴任で知覧へやってきて、遺品館が充実してきて、それに伴って県外からの見学者も増えてきて、そのうちに新しい遺品館を建設するという話になったんで、それなら、もう少し頑張ろうかなと。」
私『…』
運「今年2月に新しい遺品館がオープンして、全国各地から知覧へ大勢の人が来るようになって、仕事もドンと増えてね。そりゃ、ありがたかったですよ。私ら運転手がおまんま食えるのはあの館長さんのおかげですよ。仲間うちではね、愛知県の方に足を向けて寝れないってよく話しているんですよ。」
私『そうなんですか。』
遺品館前に到着し、私は運転手さんに1万円札を差し出しました。料金ははっきりとは覚えていませんが、 7千円弱だったと思います。
私『運転手さん、お釣りは取っておいてください。』
運「お客さん、いくらなんでもこれは貰い過ぎですよ。」
私『私の方こそ、先ほど父のことで大変いいお話を聞かせていただいたので、ほんの心ばかりのお礼です。是非受け取ってください。今度、運転手仲間の方たちと集まったときに、みなさんでコーヒーでも飲んでください。』
運「えっ、あっ、あの館長さんの息子さんだったんで すか。それを最初に言ってもらえば、メーターなんか倒さなかったのに。」
私『そんなことをしてたら、会社に叱られますよ。』
運「空車で流してたことにすれば何とでもなったのになあ。」
私『じゃあ、こうしましょう。運転手さん、私のお願いを1つ聞いてください。遺品館と父のことを末永くよろしくお願いします。お釣りは、その謝礼として受け取ってください。』
父のそれまでの苦難の道のりが、人にここまで言わせてしまうほどすごいものだったと初めて知りました。
私の小さいころの記憶に、印象深い父の言葉があります。『人ができることは他人に任せておけばいい。 お父さんは、人が嫌がったり、難しくてできないことがあると、よし、それなら俺がやってやろう"という 気持ちになるんだよ。』
本当に偉大で立派な父でした。世界中の誰にでも自慢できる父でした。『十死零生』と言われた特攻隊員で、昭和20年5月28日の早朝に、”特攻して死んだ後 は、靖国神社の大鳥居の前に集合して全員揃って中へ 入ろう”と誓い合って出撃しながら、エンジントラブルで自分だけ生き残ってしまった父。
今年1月11日に 放送されたTBSテレビ『さんま・玉緒のお年玉!あんたの夢をかなえたろかスペシャル』では、父の苦難の道のりの裏側で、半世紀以上にわたって愚痴の1つもこぼさずに支え続けた、最愛の妻(私の母)のことも 表舞台に上げてくれた父。私の知る限り、特攻で仲間とともに死ねなかったこと以外はすべてのことを全うした、素晴らしい、充実した人生だったと思います。
『70年も遅れてスマン。お前たちの死が、無駄な死ではないことを訴え続けていたらいつの間にか70年も経ってしまったよ。』。私が物心がついたころから見続けた、あの屈託のない、少年のような笑顔を振りまきながら、今は英霊となられている昔の仲間たちの輪の中へ溶け込んで行く父の後ろ姿を、静かに見送りたいと思います。
喪主 板津昌利
2015年4月8日 通夜式 4月9日 葬儀
於:犬山愛昇殿
✳︎有名な写真。特攻の母、鳥浜トメさんの左の目をつむってる方が板津忠正氏
✳︎1945年5月28日。特攻当日の訓辞。左から6番目の一番背の小さい方が板津忠正氏
板津様、
大切な記憶を私たちに遺して下さり、
ありがとうございます