皆さん こんにちは
今日は 「信じる」 がテーマ
この言葉は 宗教だけでは無く あらゆる日常でも使われる言葉です
自分を信じる
相手を信じる
家族を信じる
夢を信じる
未来を信じる
神や仏を 信じる
この言葉 あなたは何か気が付きませんか?
この信じる は 疑わない と置き換える事が出来ます
実際は ○○を信じて疑わない と言う形で使う事の方が多いかな
でもね そもそも 信じるとは 疑わないと言う事です
疑いが少しでもあれば それは 信じてるとは 言えないのです
この 信じる と言う言葉なのですが
多くの方々が 一種の マインドコントロールのような感じで 使っているんじゃないかなって
自分や 相手を焚き付ける為
奮い立たせる為
そう 何かのおまじないの言葉のように・・・
自分を信じなさいよ やればできるんだから! ってね
で 実際どうなのでしょう・・・
自分を信じられているのでしょうか?
多分 多くの方は 結局信じきれていないんじゃないかな
何故こうなるか
それは つまるところ
信じる って言う意味だったり 信じ方だったりが 分からない
そういう事なんじゃないのでしょうか
信じて疑わない と言っているのも 信じると言う事が 解らないからこそ出てくる言葉
そう思いませんか?
本当は 疑いを持つ理由が無いからこそ信じられるのですから・・・
あなたは 信じると言う意味 その方法 説明できますか?
広辞苑には まことと思う 正しいとして疑わない
信仰する 帰依する って 書いてあるんだけど
これで 解りますか 信じるって言葉が・・・
自分を信じる 言い換えれば
自分が正しいんだ
自分が まことなんだ 疑っちゃだめだ
何のこっちゃ 結局 何を信じればいいんやら・・・でしょ?
では ちゃんと皆さんが信じる事が出来るよう その方法を お教えしましょう
皆さんが信じると言う言葉を使う時 見えない対象に使いますよね
まず 此処が間違いです
自分を信じると言いながら でも信じきれないのは 自分が見えていないからなんです
だから 疑い 結局 行動が出来ない
相手を信じる でも 心の底から信じられない これも相手が見えていないから
未来も夢も 見えないから信じきれないのです
そうでは有りませんか?
信じると 断言できないのは そういう事なんです
信じたい でも 信じられない・・・
以前私は 何かの折に 見えないからこそ信じる と言いましたが
どうもこれだけでは伝わらないので
見えないからこそ 見えるようにする
そして 見えるから信じられる と 言い換えてみようと思い
今日のブログになりました かなり今日は長くなる予定ですので お付き合いの程宜しくお願い致します
では
早速断言から
はっきり言って 信じた人は 必ず行動が伴います
何故か? 見えたからです 信じるべき対象がはっきりと
先ずは 見えた けど 善くない結果になった悪い例えから お話しましょう
信じたのに騙された って言葉 在りますよね
私はあまりと言うか ほとんど使う事は在りませんが
何故騙されたか それは騙される前に 見たから信じたのです
言葉だったり 容姿だったり
一見誰が見ても真面目そう とか 控えめだとか 服装がきちんとしているとか
ちゃんと約束を守る人だから 等々
その人にとっての 信じるに値する 何かが見えた 聞こえたから信じてしまったんです
そして行動して だまされたのです
何故騙されたのか
ただ 見える物 見たもの それが その相手のありのままの姿であり言葉だと
それが真実 疑う余地は無い
そう思ったから 信じたのです
言ってみれば 広辞苑に記されている 信じる と言う意味は こういう事なんですが
でも 騙されてしまったのですよね 疑う余地が無かったのに ですよ
それが 正しいと思ったのに ですよ
それは何故だと思いますか?
表面だけしか見ていなかったから 騙された! と言う結果になったんです
表面と言うのは 実際に見えていますし 聞こえます 容姿も言葉も
でも信じるべき真実は 見えない所に隠れているモノなのです
神様もそうでしょう? 見えない所にいらっしゃる
要は その 見えない隠れた部分を 見ていなかったから 騙されただけなのです
ちゃんと見えない隠れた部分が見えていたら こいつは悪い奴だとはっきりと言えるのです
悪だと 信じる事が出来る
それが 信じられない方は その隠れた部分が見えてないからなんです
他の要素も多少ありますよ
なんか怪しいかも でも疑いたくない 自分はそんなひどい奴じゃない と言う 気持ち
この場合は 信じる と言うよりただ 信じたい と言う願望に変わっていますけれどね
だから結局 騙されてしまうんです
そうこうしているうちに 信じる事を拒むようになっていくのです
世の中信じられるモノなんか無いんだ なんて言いだすんです
それは とても悲しい事ですよ
それを 不幸せと言うのですよ
そんなの嫌だって思うなら
信じられるようになればいいだけじゃん って 簡単に言ってしまいましょう
そんな簡単にできへんわ って怒らないで
じゃあ どうすれば信じる事が出来るのか 考えていきましょう
心理学の勉強をする? めんどくさいですね
では 自分を信じる
これを中心に考えていきましょうか
自分の真実 って何でしょう
顔ですか スタイルですか 性格ですか
こんなのはいくらでも変える事が出来ますから 真実とは言えない ですよね?
なら なにが真実
それはあなたが積み重ねてきた経験
それが あなたの真実
経験していない事は あなたの中には無いのだから 幻想 妄想
自分を信じる為には
自分には何が出来るのか 何を持っているのかを知る事から始めるのです
自分自身を振り返る
それが無ければ 絶対に 無理
自分で自分が見えないのだから
だから 自信が持てない 不安になる 当たり前ですよね
さて 見えれば自分を信じられるか?
実際は そうとは言えない それが皆さんの辛いところじゃないでしょうか
でもその答えは簡単 経験が無いだけの事です
未来の出来事は 誰も経験できないのですよ
例えば ハイ 来週 全校生徒の前で スピーチしてもらいます
なんて言われたら 自信ないですよね
これが何度も経験したことであれば
完璧でなくても そこそこ上手く行った経験が いくつかあればどうでしょう?
多少の不安はあるけれど 自分を信じてやりなさいと言われれば その時は 自信を持って行動できるはずなのです
経験が裏付けになるから
自分を信じる為には
自分のやってきたことが 正しかったんだ と言えるよう努力をして 結果を出す
この繰り返しをするから 信じる事が出来るようになるんです
結果って言うモノは 見えますよね
自己データの分析 検証 それが在れば 一目瞭然
自分を信じられ無い方と言うのは その自己分析ができない状態
今まで不安や 好き嫌いで 避けてきたから
結局いつまでたっても自信が持てないのです
研究者も同じですよね 研究は見えないモノ相手です
研究者が信じるのは 自分のたてた仮説です
きちんと過去のデータや 実際の目の前のデータの分析をして あらゆる角度から選び抜いた仮説
だから信じる
同じなんです 結局は 見えるようにすればいいだけ
自分が信じた道と言うモノは 結果が出る迄変えてはいけないのです
と言うより本気で信じた方は 変えませんし ぶれません
変える理由 ぶれる理由が ありませんからね
変える場合は なにがしかの結果が出てからなのです
変える理由がきちんと結果で出たから「帰る」だけです 元の場所に
若しくは間違った場所に
そしてもう一度行くべき道をはっきりとさせるのです
行うべきことを明確化するのです
しかし多くの方は と言うより何も信じられない方々は 簡単に道を変えてしまうのです
信じていないから 道を変えるのです
だから 迷うのです
どこに行けばよいのか
目印が無いのですから 当然迷いますよね
中には 自分が迷っている事すら 気が付かない と言う方も多いですが・・・
では 神様 仏様を信じる と言う事は どういう事か
何時も私は ほとんどの方が 神様を本気で信じられていない と言う話をします(実際そうですからね)
そして よくある コメントや質問では 信じているから参拝するんです
信じていなかったら神社やお寺なんて行きません みたいな言葉がほとんどです
しかし それを妄信と言うのです
神様を信じるに値するデータが皆無だからです
神様の何を信じればよいのか その根拠となるデータが全く無いのです
だから 全てが中途半端になるのです 幸せに成れないのです
神様を信じていないから 全て我流になるのです てきと~ になるのです
何をすればよいのか が わからないから
兎に角 お願いをしよう と それだけに必死になるのです
お願いをするのはダメで お礼だけにしなさいって 言われてるから ただそうする
何を与えてもらったかもわからずに・・・
そんなことをしているから 結局何のデータも集まらない
だから 心底神様を信じられないのです
本当に信じている方は 何を与えてもらったか 一つ一つ解ります
信じる根拠が明確に在るのですから
だから 大抵の方とは 態度が違うのです 一目瞭然ですよ
願いが叶う 叶わない その程度の認識では終わりませんからね
きちんとデータ分析が出来るのです
こういう何の根拠も無く 自分がそう思っているんだからそうなんだ それでいいじゃないか
と言うのを 馬鹿 と言うのです
あなた 間違っていますよと教えられても正さない者を 馬鹿と言うのです
相手を信じず 自分の我だけで生きている
だから 操られるのです 色んな情報に・・・
自分が行きたいところでは無い所に向かってしまうのです 知らないうちに・・・
少し視点を変えて
自動 と 他動
こんな事日常考える事は無いと思います
けれど これはとても重要な事なのです
例えば 車が動く と 車を動かす
どちらにしても車は動いていますね
では 車をあなたとしましょう
あなたが動く コレ勝手に車が動く状態 だから 自動です
あなた以外 誰も操作をしていないのですからね
車を動かす コレは あなたを 誰かが 動かしている状態 だから 他動です
どちらもあなたは動いているのですが 自動か 他動かで意味は 大きく変わります
人生 あなたは自分で動いていると思っていても
ほぼ 動かされていると言えるでしょう
情報に操られているのですから
色んなミスリードにも気が付かずです・・・
神様の導きとは
皆さんが 自ら動けるように 道を照らすだけです
皆さんが自ら動けるように タイヤや ハンドルを用意するだけ
若しくは整備の仕方を教えて下さるだけ
道具選び 部品選びは重要ですよ
それから 目的地までのルートも
車1台完成させるには その車に合った部品 その部品に在った道具でなければ完成はしません
目的地までのルートを間違えれば辿りつけません
貴方と言う車を 完成させ 目的地がはっきりしているから あなたは自ら動けるのです
それを動かすのは他人や私では有りません
私は あなたと言う車を造る為に必要な 安全な部品や道具を 用意するだけです
貴方の行きたい道を知っているから その道を教えたり 照らしたりするだけなのです
私があなたの車を造るのでもなく 運転するのでもありません
あなたが素人で
組み立て方がわからないなら 道具の使い方がわからないなら 私が手助けをします
道が解らないなら 教えます
それが 私の仕事です
けれど
私が用意した部品や道具は 安全な物です ハイ信じましょう そういっても信じられませんよね 当たり前です
完成品を動かして 走らせるから 安全だったんだと
目的地に着いたから 正しかったんだと 後から判るわけです
こういう積み重ねで 安全かどうかを見分ける事が出来るようになるのです
見分けられるから たかが道具一つ 部品一つだけでも そこから完成を信じられるのです
信じられる方は 初めから何でも信じていたのではありません
信じる とか 疑うとか以前に
何でも素直に受け入れていただけなんです
他人に操られてでは無く 自ら動いていたのです
そこに在るモノに 素直に進んで手を伸ばしていただけなんです
その一つ一つを大事にしていただけなんです
そういう積み重ねが 信じる事へつながったのです
こういう経験を積んで行くから データが蓄積されて 信じる事に至れるのです
やみくもに 動かなくてもよくなるのです
自分で その信じた道に 目印がつけれるのですから 後はその印に従って歩けばよいだけ
経験値が低ければ低いほど やみくもに歩き道に迷います 印をつけようがないのですから
やみくもに歩いただけでは 当然何も見えていないのですから データは蓄積されません
自分が いつ どこで 何を 何のために 動いているのか
結果オーライ なんて言って
結局 間の過程を無視しているから いつまでたっても データ収集が出来ないのです
だから何も見えてこない
だから信じるなんてできないのです
信じて だまされる方や 信じずに何も結果が変わらない方
そして
信じて 行動が出来 良い結果を出す方
此の違いは何だと思いますか
結局 信じる為のデータ 判断材料が 豊富にあるか無いかなのです
気の持ちようなんて言う 軽いものではないと言う事です
本気で 生きているか いないか と言う事です
何の気なく 生きて てきと~ に過ごしているようでは
データの蓄積などできるはずが在りませんよね
本当に信じるべきものを 信じる事が出来る人は
疑わなくていい理由を ちゃんと解って 説明できると言う事です
信じるに値する理由を ちゃんと説明できる人です
理由も無く 妄信したり 疑ったりはしないのです
疑うなら 疑う理由もきちんと説明できる
信じない理由も きちんと説明できる
逆に
何一つ説明できないから 本気で信じる事も 本気で疑う事も出来ない 中途半端なのです
あなたは 信じる事が出来ますか?
自分を 友を 家族を この世のあらゆるものを
何故それを信じるのか理由を説明できますか?
信じた方は説明が出来るのです
上手く言葉で表せない と誤魔化しているようでは 信じているとは言いかねます
だから そういう方は 何も変わらないのです
何もつかめないのです
色んなことを あきらめるだけなんです
惰性で生きるのです 息をするだけの人生です
これが幸せだと 言えますか?
違いますよね?
だから 信じられる事は 幸せだと言えるのです
本当に何を信じるかがわかる方は 騙される事も無いのですよ
不幸の種はどんどんなくなるのです
貴方が未だ若くて 信じる事が出来なくても まだ間に合います
今から素直に何でも受け入れる道を選び データを蓄積すれば 信じる事が出来るようになります
労を惜しむ者には データの蓄積は出来ません
貴方が 中年期なのであれば もっと必死に素直になりましょう
そして振りかえり 沢山のデータの整理をしてみましょう
老年期であれば 残念ながら 現世での幸せには間に合いません
大凡のデータは 書き換えられていますし 失われていますし
労にも支障が出ていることでしょう
こうならない為にも 若いうちに 沢山の経験が必要なのです
私の話が信じられる方は それなりのデータが在るから 信じられるのです
信じたくないのであれば そもそも 読む必要は有りません
文句を言う必要もありません
文句を言うと言う事は 自分が信じている事と違うからですよね
だったら自分が信じられるところへ行けばいいのです
此処の神社の参拝者であれば 参拝する必要もありません
神道や既存の宗教を信じられないと言うなら 自分で宗教を造ればよろしい
それを信じるに値するならば その道を歩けばよろしい
既存の神社やお寺 教会に 貴方の信じている違う信仰を用いる事は してはなりません
そこに行って否定をしてもいけません
否定をするくらいなら 行かなければ良いのです 行く理由が在りません
間違っているなら その根拠をきちんと宣べるだけです
根拠も無く自分の想像程度の認識で 否定をするようでは はっきり言って 馬鹿と言います
塗る薬は在りません
信じたくないなら 行かなければ良いのです 信じる理由が無いのですから
なのに 訳も分からず 根拠も無く ただ 行くと言うのを 阿呆と言います
そこにはそこの正しい信じるべき教えが在るのですから
そこの神様や 教祖様の教えが正しいと教えているのですから
信じたいのであれば 先ずその教えの通りに素直に行動をするだけです
そうすれば 全てが明白になります データが集まるのですから
もしその教えが本当に間違っていたなら 教えに従う事を止めればいいだけ
信じる事を止めればいいだけ
信じる理由が無くなったのですから そこに留まる理由は何処にも在りません
そこに行く理由も 行動する理由も 何一つないのです
ただし 目先の結果で判断してはいけません 結果は遠くに在るのですから
(これは習い事や 仕事にも言える事です)
しかしその間違いは あなたの中にデータとして残るのですから 無駄な時間では有りませんよ
信じない 疑うのであれば 逆に その正当な根拠をあらゆる角度から導き出せばいい
行動をして 検証すればいい
そうすれば 安心して信じなくていいのだから
でも 実際は ないですけどね 神道に関しては・・・
郷に入っては郷に従え 先ずは素直に従って行動してみてはいかがでしょうか?
そして判断なさればよろしいのでは?
全ては貴方のデータ蓄積となるのだから 無駄では決してありませんよ
何もしない方が 無駄ですよ
データは あなたが生きている証しです
でもそのデータを何にも使わなければ 押し入れの中の 古いビデオテープか何かのような存在 役に立たないモノ
私の話を 信じる信じないは 自由です
しかし信じる信じない それを決定する為に 先ず受け入れて その通りに 行動をしてみてください
そうして1つ1つ振り返り その行動の結果何が見えてきたか
そしてその結果 自然と どちらを選ぶかは決まります
兎に角素直に1度行動してください
そして データを積み上げて行って下さい そうすれば必ず人生好転しますから
あなたは 悩みや 苦しみから解放されます
でも正しい行動を起こさなければ 当然そこからの解放は在りません
人生覚悟です
私は皆さんを騙す事はしませんが
ここらで騙されてもいいと言う覚悟決めて 行動してみてください
疑いは持たずに 騙されてもいいと思う事が大事です
疑いは行動によどみを産みます
先にも話したように 騙されてもあなたのデータは蓄積されているのですから
何も損は無いのです
でも これだけは言っておきます
絶対に騙されると言う結果にはなりませんから
信じる事がどういう事か 解るようになるのですから
では
皆さんが 信じる為の 行動を起こし
疑いを拭い去る為の 検証をされることを 願い
その検証を基に信じる事を願い
長くなりましたが そしてかなりくどかったかもと思いますが
今日は この辺りで・・・