皆さん、ご機嫌まっすぐでしょうか?
今回は、なぜ秋田の民放テレビは3局止まりなったのかについて取り上げたい。
 
 
以下一部引用。
 
秋田放送(ABS) 創設の中核となり、昭和28年11月にラジオ放送を始める。この 後、ラテ兼営の流れで、ABSは35年11月に県下第一号の民放テレビ(VHF)を開する運びとなる。
テレビ進出には不安もあったようで、秋田魁社社史『説者とともに、世紀 秋田魁新報社』には次のようにある。
 
〈そのころ、ラジオは黒字であったが、テレビを加えたら赤字になるのではないかいうのが武塙祐吉社長(秋田魁新報社の社長兼務) はじめ首脳部の心配だった。〉
 
とあるようにテレビやっても赤字なると心配といういわゆる消極的であった。
しかしフタを開けてみると後楽園球場の巨人戦中継に力道山のプロレス中継とスポーツ中継を武器に持つ日本テレビをキー局にオープンネットで開局。
日本テレビ(以下日テレ)の他にラジオ東京(東京放送、現:TBSテレビ、以下TBS)の番組も編成して放送していた。
更にフジテレビやNETテレビ(日本教育テレビ、現:テレビ朝日、以下テレ朝)の番組も少なからずネットするようになります。
 
 
秋田放送のテレビ開局によって日本テレビのスポーツ中継で秋田県民もテレビに夢中になる。
ドラマのTBSと呼ばれてたTBSのドラマもネットされる。
そして秋田放送のテレビにスポンサーも付いて赤字どころかテレビが黒字になったではないかと思う。
逆に昭和39年の東京五輪のあと景気も悪くなりラジオは赤字となったと思われます。
なのでTBSはラジオ版JNN即ちJRN(ジャパン・ラジオ・ネットワーク)を発足させる。
それに対抗し文化放送とニッポン放送がNRN(ナショナル・ラジオ・ネットワーク)も発足する。
 
その後・・・
昭和43年、UHFテレビの割り当て(第二次)が秋田でも公になり、競願9社が出そろった。
朝日、毎日、読売、産経ならびに秋田魁の新聞勢と地元資本勢である。
調整役は2小畑勇二郎知事である。
調整は順調に進み、二回の会合で一本化がなった。
素早く一本化した背景には小畑知事の力がある。
小畑は30年から6期24年尚秋田県知事を務めるなど、秋田政界のリーダー であるだけではなく、全国知 公の実力者でもあった。
(中略)
秋田テレビの礎を作り、大きく成長させたのは二代目社長の中安正衛である。
秋田魁新報出身です。
 
 
ABSの当時の社長も魁出身です。
秋田県で絶大なシェアを持つ秋田魁新報が強くて他にテレビ参入しようとする企業なども出ないと思われる。
まずAKTに競願9社しか出ないとこ。
いかに秋田魁新報が強いかがわかる。
 
キー局決定についてあくまでも推測だが、ABSが日テレとTBSの番組を押さえており日テレが7~8割で残りの10数割がTBS、テレ朝とフジが数割、という編成だった為日テレはダメ。
ではTBSはというとTBSもABSが番組を押さえており譲れない為ダメ。
スポーツ中継で視聴率取れてた日テレはABSも譲れない訳でTBSもドラマやスポンサードネットで人気番組を持っており譲れない訳だ。
となるとテレ朝かフジしか選択肢がない。
しかし当時テレ朝はNET(日本教育テレビ)という教育専門局だった為弱い。
そこに大量にUHFテレビ解放で免許大量交付の時にフジテレビはUHF局を育成する、スポンサー一括契約をするなどという鹿内信隆(当時フジテレビ社長)の話に乗ってキー局をフジテレビにしたものと思われます。
 
その後、1986年に秋田に民放テレビ3局の周波数割当てという話になり朝日新聞秋田版のスクープ記事で3局目はTBS系が有力と言われてたとか。

 

 
ところが3局目がテレ朝系なったのもあくまでも推測であるが1984年にエフエム秋田が設立され1985年4月に開局となる。
やはりここも秋田魁新報の資本が入る。
 
つまり3局目をTBS系にすると地元新聞社の後援を入れなければならないらしくそうなると当然秋田魁新報の資本を入れなければならない。
となるとAKTが魁資本を3局目移してにとなるとマスメディア集中排除のあれに抵触してしまう。
しかもAKTの隣にエフエム秋田を開局させてるのでAKTの関連企業という立ち位置なのでここも魁資本を3局目に移す事はは不可能。
なので朝日新聞とテレ朝が新局拡大に積極的だったのもあり3局目はテレ朝系になる。
つまり秋田魁新報資本でテレビ局を新たに作れない。
かといって県内にも有力紙と言える新聞社はなくて小さな新聞社程度である。
 
そして、おわかりだろう。
秋田魁新報は1992年頃に大町から臨海に移転してますね。
AAB本社は秋田魁新報本社近くである。
魁の近くに朝日新聞のテレビ局な訳だ。
秋田の清酒メーカー両関酒造の社長がテレビ局を作る事となる。
そして1992年10月には一切秋田魁新報の資本のない秋田朝日放送(AAB)が開局します。
サービス放送開始からしばらくは秋田魁新報のテレビ欄のリニューアルは行われずAABのテレビ欄は掲載できなかったのです。


苦肉の策として魁に広告は出稿可能だったため新聞広告に連日テレビ欄を掲載する訳です。

AABの新聞広告

サービス放送最終日にようやく魁のテレビ欄がリニューアルしてAABのテレビ欄が掲載されます。
写真はサービス放送最終日ですが、最終日もテレビ欄を広告の中に掲載して魁など新聞社各社に広告を掲載します。
 秋田県内の他の地方紙はサービス放送初日からテレビ欄を掲載してたものの魁だけなかなか掲載させてもらえなかったのです。
 
で、4局目作ろうにも秋田魁新報の影響力が強すぎてどこも参入したがらないしTBS系列の4局目作るとABSからTBSの番組が消えてしまいABSは読売新聞、日テレの影響力が強まるという訳でそんな不安もあり誰も民放テレビ4局目設立には参入しなかったと推測されます。
そして愛媛県に伊予テレビ(現:あいテレビ)開局のあとTBS放送センターを建て替えて新放送センターであるビッグハットを建設しなければならなくて秋田県にTBS系列進出させるために出資も出来ない。
おまけにバブルはじけて不景気だったし。
 
あとAAB開局で難視聴地域を多く出してしまった為に当時の秋田商工会議所会頭でダイエー秋田ニューシティを運営していた辻兵吉氏は休眠状態だった(詳細はVBCテレビさんのブログ記事参照)秋田ケーブルテレビ開局の音頭をとり開局させます。
開局当時マスコミの取材にこう答える。
「テレビ局を作っても難視聴地域出るから効率よく情報を流せるとなればケーブルテレビ云々」と発言。
更にキー局はデジタル放送への投資もあったり地デジ放送の計画もあり地上波テレビ新局の開局の話はなくなります。
1999年のとちぎテレビをもって新規参入は終了します。
 
要するに県民誰も新しいテレビ局求めてなかった。
3局目開局の時もABSとAKTで充分だという認識でした。
お隣岩手の場合は水沢(現:奥州市)市民から岩手にも民放3局目をという声があがりそれにフジテレビが答える。
そして当時、自民党幹事長だった小沢一郎代議士の地元でもあって小沢一郎代議士が上手く動き岩手めんこいテレビが1991年4月に開局。
つまり秋田の場合は秋田魁新報の影響力が強すぎて新規参入しようにも難しいという事で誰も声を上げなかった訳。
 
新聞休刊日に「あすは新聞休刊日のため朝刊を休ませていただきます。ご了承ください。ニュースは「秋田魁新報電子版」、携帯電話サイト、秋田放送のテレビ・ラジオ、エフエム秋田の「さきがけニュース」でお伝えします。」
という文言が掲載されます。
他県では新聞社の販売店単位で新聞休刊日である事のみお知らせしてますが、秋田魁新報だけ特殊で魁のサイトにて新聞休刊日のお知らせをしててその上でテレビとラジオのさきがけニュースで伝える趣の文言があるわけです。
下手すれば中日新聞以上なのか?
中日新聞に相当するのか?です。

これ全国的なものと思ってたんですが他県に引っ越してそこの放送局と資本のある大きい新聞社の新聞を読むと新聞休刊日にはその様な文言はなく普通に新聞休刊日である事のみが掲載されているのです。
系列の放送局で新聞社のニュースにて伝えるという文言はなくて驚いた。

さらに新聞のラテ欄のABS秋田放送の番組欄には魁の[魁]という記号とニュースの[N]という記号がある。
中日新聞における[中日N]や熊本日日新聞(熊日)における[熊日N]のようなものだ。
他県の新聞社資本の強いテレビ局でもここまでやってるとこもそんなにないだろうと思います。

更に秋田ケーブルテレビのコミュニティチャンネルにも秋田魁新報文字ニュースというものを配信してたりで魁のラテ欄に秋田ケーブルテレビのコミュニティチャンネルの番組欄まで掲載されてるわけです。

秋田魁新報のテレビ欄の並びを見てあとで、ふと気づきました。
公共放送NHK魁兄弟会社朝日新聞のテレビ局魁とは47CLUB繋がりの岩手日報資本のIBC
この様な順番です。
 
北海道(北海道新聞)、山形県(山形新聞)、静岡県(静岡新聞)、 愛知・名古屋(中日新聞)という地元紙の影響力があるとこともまた違う特殊な地域なのだとふと感じました。
 
※引用「そして、フジネットワークは生まれた日本有数のテレビネットワーク、成長・発展の時代から挑戦の日々へ」(堤政郎著・扶桑社)

※このブログ記事はあくまでも推測であり本書籍には掲載されておりません。