武蔵村山の市民体育館のトレーニングルームに行ってきた。

一通りの器具は揃っているらしい。
初めてトレーニングの器具を扱うので全く使い方がわからなかったが、トレーナーの人が優しく教えてくれた。
トレーナーのおじさんはスキンヘッドの似合うダンディーな人だった。
腹筋、背筋、腕、足と一通りやってみたが、久しぶりの運動だったら酸素が足りなくなった笑

これで200円は安いな(市内の人限定)

ちかくの市民体育館に是非行ってみてくださいな。

いい出会いもあるかも!?

そういえば、色んな教室もあったなあ。
空手や社交ダンス、合気道にお茶。
興味があったら行ってみるといいかもしれないですよ。
楽しそうにしているお母様方&子供たちがいました。

僕もなんか教室に入ってみようかななんて思いました。

そんな感じの1日でした。
あなたはいくつ顔を持っているでしょうか?

最近、人間関係を保つ上で非常に役に立つツールがいくつも登場してきました。
mixi,twitterなどのSNSがその代表例です。
あなたもどちらかのアカウントを持っているのではないでしょうか。

人間関係の基本は、まず集団に馴染むことです。
中学のコミュニティと高校のコミュニティは幾分か都合が違うでしょう。
大学、社会人ともなると、更に勝手が違ってくるでしょう。

極端に言えば、SNSが登場するまでは人間関係は一時のもので、その時期を過ぎれば解消されるものでした。同窓会に積極的に参加するなど、本人の努力、というか本人の意思でコントロールできたのです。

しかし、SNSが誕生してからは違います。
マイフレンドのような機能で、web上で半永久的に人間関係が延長されてしまうのです。
知り合いとして、コミュニティに所属するのが普通になったのです。

こうなると、中学の時に用いていた顔と高校の時に用いていた顔が違うので、顔に「ズレ」が生じます。
本来なら会うことのなかった顔同士が、文字通り顔を会わせるのです。

高校生の同級生と一緒にいた時に中学の同級生にばったり会った時に生じる気まずさを体験したことがある人なら、その感覚が伝わるでしょう。

その気まずさがWEB上で永劫と続くのです。
これが、俗に言う「コミュ気まず」です。(冗談ですよ

まあ、これは冗談ですが、実際、違うコミュニティの人に日記などを公開する時には、ある種の緊張を伴うことでしょう。
普段おちゃらけている奴が実はキレ者であるということはザラにありえることでしょう。

これは日記を書くときだけ起こる現象ではありません。
日記にコメントを返す時も起こるのです。
普段ふざけている奴は高尚な日記にコメントを返すことができなくなってしまうのです。

これをコミュニティの監視効果と言います。(冗談です
日記にコメント返してくれる人が少なくて悲しいと悩んでいる人はコミュニティの監視効果によるものなので気にしないようにしましょう。

こんなことが日常起こっているので、多くの人はアカウントを別に持つことにしました。(これを別アカと言います

WEBは人とつながりを持つ良い面ばかりが強調されているかもしれませんが、悪い面もけっこうあったりするのです。
人間関係が解消しずらくなったという点。
これは新しくスタートをする時に不便になるかもしれませんね。

人とのつながりが目に見えるようになったからこその寂しさや煩わしさも目に見えるようになったのかもしれないですね。


なんか、書きたいことがまとまらないままに、徒然と書いてしまいました。

みなさんも何か意見があったらコメ欄にコメ残していってくださいね。



ここは名無しで書き込めますから♪


ペタしてね
最近、バイクで奥多摩行っていません。
なんかバイクで峠に行く前って緊張したりすることありませんか?バイク乗りのみなさん!(同意を求めて)

べつにスピードを出そうとして行くわけでもなく、軽く流そうというだけなのに、何故緊張して行くのに覚悟が必要になるのです。

たぶん、流すだけ~とか思っていても、力が入って攻めたくなるだろうということを体が知っているからなのでしょう。
そんなこんなで、今日も覚悟が決まらず、行かないことにしました笑(雨も降ってたしね)
narubomというアカウントでツイッター始めました。
まだ使い始めて少ししか経っていないのですが(アカウントは一年前に取っていたが、使い方がよくわからず放置、、)
流行ってきたということで、このビッグウェーブに乗り遅れるなということで、改めて始めました。
フォローしまくってください。

知らない人にフォローするのは楽しい。
意図的に冗談ばかり言う人をフォローしています。
なんか、アカデミックな人達ばかりフォローすると軽く発言しづらくなるので笑

ペタしてね
何故生きているのか、考えたことはあるだろうか。
人には必ず生きるための原動力があると思う。
ふと気になったので、ある友人に尋ねてみた。
聞いてみると、彼の生の原動力は「選択」であった。
彼は中学生のころ生きる意味について考えたらしい。
すると、生きても死んでもどっちでもいいという結論にいたった。
しかし、どちらが楽しそうかというと生きる方だった。
なので彼は生きることにした。
それから、彼は楽な方、楽な方を選択し、生きることにした。
(楽な方というのは決して怠惰のようなものではなく、より楽しく生きることができる努力を伴うものである)

これが、彼の生の原動力である。

俺の場合はどうだろうか。
俺の生の原動力は「屈辱」である。
俺はあまり親から認められたことがなかった。
今になって思うと、現状に満足せずに向上心を持った子に育てようという親の思いやりだったのだとわかるのだが、当時は腸が煮えくりかえるほど腹が立ったのを覚えている。
くやしくて涙を流したこともあるほどだ。
俺は認められるように努力をしてきた。
そして、それが俺の生きる意味になっている。
認められて、俺の中にある屈辱を消し去りたい。その一心で今まで生きてきた。
振り返ってみると、見返そうということに囚われて高校時代を過ごしてきたのだなあと思う。
少し後悔の残る青春だったなあと思うこともある。
だが、その屈辱のおかげで今の俺があると思うと、それも悪くないかなとも思うのである。

あなたの生の原動力は一体何ですか?
振り返ってみると、自分の身の周りの状況に合点がいくかもしれないですよ。