先のブログのとおり、この

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

は、ヘーゲルの法哲学要綱

法哲学

の序文にある有名な命題です。

もちろん、ヘーゲルは所与の現実をそのまま理性的であるとして安易に肯定しているのではありません。

この命題の言わんとするところをここに記述することは、到底私の能力の及ぶところではありませんが、様々なヘーゲルに関する研究書を繙いて(といっても3冊ほど)私が理解した範囲でいえば、おおよそ次のようなことになると思います。

ヘーゲルは自身の哲学の目的を、現実の中に存在する理性的なものを思考をつくして探り当てることとしていました。
そして、現実の中には偶然的なもの、非本質的なもの、理性に反するものが多く含まれていることも多いわけですから、理性的なものを提示することは、それらのものに対する批判ともなります。
ヘーゲル哲学にとっての現実というものが、理性を駆使して探し出したものである以上、当然のことながら、

「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

ことは、ヘーゲルにとっては、敢えて言うまでもない事だったのでしょう。

同じく、ヘーゲルは法哲学要綱の序文で「理性的なものが現実的であり、現実的なものは理性的である」と述べたすぐ後にこうも言っています。

「肝心なことは、時間のなかで、消えゆくかに見えるもののうちに、まさしくそこに内在する本体を、そして、そこに現在する永遠なるものを、認識することである。なぜなら、理念の同義語たる理性的なものは、現実のすがたをとって外界にあらわれでるとき、無限に豊かな形式と現象と形態をとりつつ、その核心を、多彩な外皮をもっておおうからである」

朝日新聞社も、このような姿勢で取材・編集していれば、少なくとも「吉田調書」についてはあのような報道にはならなかったかも?
そして、朝日以外のすべてのマスコミ、いやマスコミに限らず全ての人がこのような姿勢を保つべきなのでしょう。

余談はさておき、鈴木商店の大番頭金子直吉は、大衆が「鈴木商店が米を買い占めたから自分たちが米を買うことができなくなった」、と誤解し鈴木商店が襲われやがて焼打ちに遭うという危機が迫ったときに部下から善後策を問われたとき次のように言ったということです。

「鈴木商店は米の買い占めなど何も悪いことをしていないのだから、大衆も決して店を襲うということがあるはずがない。
大衆もわかってくれる。」

金子にとってみれば、そのような不合理なこと(店が襲われるようなこと)が現実的に起こるはずがない、と思っていたのでしょう。

不合理なことは現実に起こりえない、つまりヘーゲルのあの命題を金子直吉は信じていたのかも知れません。

後年、直吉の息子である金子武蔵がヘーゲルのこの命題に出くわしたとき、

「父もヘーゲルとおなじことを考えていたのかも」

とでも、思ったことがあるのでしょうか(ちょっと、穿ち過ぎかも)

そう考えると、実業家の直吉と哲学者の武蔵という親子関係の他に一見何の繋がりもないと思えるのが、実はヘーゲルを通じて繋がっていたのかも、と妄想してしまいます。

もっとも、ヘーゲル先生に言わせれば、このような妄想は、非理性的であるがゆえに非現実的である、と喝破されてしまいそうですけど。

理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である・・・了